1993年の明日2月1日はオランダ駐在武官だった時にヨーロッパでの第2次世界大戦が始まるとナチス・ドイツのオランダ侵攻の情報を察知・通報してオレンジナッソー勲章を受けた渡名喜守定(となきしゅてい)大佐の命日です。
渡名喜大佐は明治35(1902)年に沖縄県で生まれ、大正11(1922)年に海軍兵学校を50期生として修了しました。同期には海軍体操の考案者で海軍陸戦隊の落下傘部隊の指揮官、敗戦後にオランダの逆恨みで事実無根の戦争犯罪で銃殺された堀内豊秋大佐や後の航空幕僚長の佐薙毅空将、自衛艦隊司令官の吉田英二海将がいます。
中佐の時、オランダ駐在武官として赴任すると1939年9月1日にナチス・ドイツがソ連と共にポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まりましたが、オランダでは第1次世界大戦でプロシア皇帝・ウィルヘルム2世の亡命を受け入れるなどナチス化とは別にドイツとは緊密な友好関係にあり、地理的にはドーバー海峡の対岸のイギリスやベルギーを隔てたフランスの援軍を期待できるため危機感を持つことはありませんでした。
ところがナチス・ドイツはポーランドに続いてフランス侵攻を計画し、平坦な大陸に戦車部隊を横一線に進行させる得意の機甲戦術には第1次世界大戦後にフランスがドイツの国境線に構築した陣地帯・マジノラインが障害になりました。そこでオランダとベルギーを攻略して迂回路を確保し、併せて航空基地を建設して対岸のイギリスへの抑えとすることを決定したのです。
しかし、ナチス・ドイツ軍内には皇帝・ウィルヘルム2世を厚遇しているオランダに対して感謝の念を抱く貴族階級の士官が多く、イギリス陸軍情報部隊の士官がドイツとの国境付近で親衛隊に逮捕された事件を「中立義務違反」として侵攻を決定すると情報を漏洩するようになりました。その情報を耳にした渡名喜中佐は1940年9月27日の日独伊三国同盟締結に向けてナチス政権内に喰い込んでいる駐ドイツ日本大使館に接触し、オランダ侵攻計画が事実であることを確認してオランダ軍に通報しました。
さらにナチス・ドイツ軍情報部の大佐は決行日時まで漏洩しましたが、空挺部隊による奇襲作戦が中心だったため悪天候で延期が繰り返されて警告を受けた連合軍は信用しなくなってしまい1940年5月10日に実施され、17日に占領されました。
この事前情報が役立ったのは女系王家の亡命で女王と娘の王太子は5月13日にアドルフ・ヒトラー総統から「女王捕縛の命令」を受けていた機甲部隊が王宮に到着する30分前に脱出し、イギリス海軍の駆逐艦で対岸に渡ったのです。
この勲功により渡名喜中佐にはライオン勲章に次ぐ主に軍人に贈られるオレンジナッソー勲章でもオランダ軍の大将や中将よりも格式が高い勲3等が授与されました。
帰国後は大佐に昇任して軍令部参謀、南西方面艦隊参謀、大本営参謀県海軍大学校教官、水上機の福山航空隊司令を歴任し、敗戦後は沖縄へ帰って沖縄銀行の理事や捕鯨・漁業・水難・海外移住公社などの団体の理事長や会社の社長を務めました。中でも沖縄観光開発事業団理事長として富見城市の海軍司令部壕の復元に尽力しています。
- 2022/01/31(月) 14:36:35|
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