「太陽の季節」で芥川賞を受賞した作家の石原慎太郎さんが2月1日に89歳で亡くなったそうです。
野僧は中学生の頃に町立図書館で見つけた「太陽の季節」を読みましたが、小坊主として明治生まれの師僧の薫陶を受けていただけに敗戦によって日本的倫理が崩壊した親や教師たちの青春時代が「これほど無軌道で無節操、無責任だったのか」と呆れ、偉そうなご託宣も話半分に聞くようになりました。それでも「太陽の季節」は昭和31(1956)年の芥川賞なので60年安保闘争や70年代学園紛争よりも前ですから、この荒廃した大学で教育を受けた世代が全く話にならないのは至極当然でしょう。
石原さんは野僧が小学校に入学した昭和43(1968)年に参議院議員になり、政治家としての活躍を見るようになりましたが、当時は不磨の大典とされていた日本国憲法の改定を公言するなど「太陽の季節」の作者とは思えないほど保守的で、教師や朝日新聞を購読していた父親は毛嫌いしていて中学生になる頃までは実像が見えませんでした。
その後、政治色が強い高校に進学して生徒会の役員になると生徒同士の政治談議でも1年の11月までの福田赳夫内閣の環境庁長官として話題になることがありましたが、多くは「石原裕次郎の兄」と言う認識だったので主義主張にまで議論は及びませんでした。環境庁長官在任中は水俣病の現地を視察して被害者が書いた手記を読んで「立派な文章だ」と知的障害を疑うような発言をしたと批判されましたが、本人は「文学者として客観的に評価しただけだ」と弁解していました。続いて1987年に竹下登内閣で運輸大臣になると海上保安庁にスポット・ライトを当てさせて、その後の北朝鮮工作船や尖閣周辺海域で活躍を見せる前置きを作りました。
そして1999年に青島幸男都知事が責任を放棄すると舛添要一議員、鳩山邦夫議員、柿澤弘治議員、明石康UNTAC代表との選挙に勝利して2012年に退陣するまで4期連続の長期都政を担任しました。都知事としては次々に奇抜な政策を打ち出しましたが、それが全国区の報道番組が都知事の発言を首相や官房長官と同格以上に取り上げるようになった切っ掛けであり、現在も厚化粧の都知事が引き継いでいます。
都知事としては私有地だった尖閣諸島を東京都が購入して公有地として警視庁が警備すると言う奇策がありました。結局、これを阻止するため民主党の野田ドジョウ政権が国有地化したのですが、その経緯の説明が不十分だったため中国で反日暴動が発生し、日本人の中国に対する親近感が崩壊したのが真の狙いだったとすれば稀代の策士です。一方、最大の失策は東京オリンピックの誘致で、おそらくオリンピック以降、マスコミがヨーロッパの人権団体が扇動する同性愛者や身体障害者の権利拡大に同調している軽薄な風潮に歯噛みしながら最期を迎えたのでしょう。
弟の石原裕次郎さんの墓所は神奈川県横浜市鶴見区の曹洞宗の本山・總持寺にありますが、石原慎太郎さんは日蓮宗系の霊友会の信者であり、立正佼成会の会員ですから往生する先は同じ霊山(りょうぜん)浄土です。そんな訳で「南無妙法蓮華経」
- 2022/02/04(金) 15:34:29|
- 追悼・告別・永訣文
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