昭和7(1932)年の2月5日に海軍の青年士官たちに危険思想を扇動した5・15事件の首謀者の藤井斉(ひとし)大尉が実行犯になる前に第1次上海事変で戦死しました。
藤井大尉は日露開戦の明治37(1904)年に長崎県平戸で炭鉱経営者の長男として生まれましたが、間もなく父親が事業に失敗したため佐賀県の祖父、続いて孫文さんの辛亥革命を支援した親族に預けられ、多大な影響を受けたと言われています。
旧制・佐賀中学校を進学すると親族は大学に進学して外交官になるように勧めましたが本人は海軍兵学校を志望しました。入学試験では佐賀県庁で行われた面接で兵学校教官の面接官が藤井くんの人物に感嘆したと言われていますが、野僧も海上自衛隊一般(部外)幹部候補生の2次試験の面接で、試験管の幹部候補生学校長(海将補)に「来年の春に江田島で会えることを楽しみにしているよ」と声をかけられましたが落ちているのでどの程度の逸話なのかは疑問です(野僧はその年に航空自衛隊の部内選抜の幹部候補生に合格して江田島研修で校長に会うと憶えていて「すまんかった」と言われました)。
この頃の海軍兵学校は第1次世界大戦後の軍縮の煽り受けて生徒数が激減していて、1年前の52期は236名でしたが藤井くんの53期は62名でした。その少数の同期の中には皇族の伏見宮博恭王元帥の息子の博信王大佐や敗戦後に自衛艦隊司令官を務めた福地誠夫海将の他、ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約に該当しなかった潜水艦による通商破壊で活躍した宇野亀雄大佐、大橋勝美大佐、日下敏夫中佐などがいます。
在校中も藤井生徒は大アジア主義を主張して鈴木貫太郎軍令部長が来校した時には軍縮に反対してアジアの解放を訴える演説を行ったため学校当局は退校処分を検討しましたが、それでなくても人数が少なかったので処分は免れ、かえって後輩の信奉者を獲得してしまいました。また藤井生徒は休暇を利用して上京すると大川周明さんや安岡正篤さんなどの大アジア主義の指導者に面会して教えを受けて海軍よりも陸軍の過激分子に接近しました。
大正14(1925)年に卒業して少尉に任官してからも乗艦が呉基地に入港すると江田島を訪れて後輩たちを扇動して信奉者を増やし、昭和4(1929)年に操縦要員に転換して霞ヶ浦航空隊で教育を受けると首都圏で名を売るようになりましたが、教育終了後は地元の大村航空隊に配属され、昭和6(1931)年に航空母艦・加賀乗り組みになり、昭和7(1932)年1月28日に発生した第1次上海事変に出撃して上海上空で撃墜されて機長と通信員の下士官と共に戦死しました。
藤井大尉の政治主張は齋藤實大将や岡田啓介大将などの海軍でも条約派の提督たちが参加していた政党政治を否定して軍主体の国家改造を目指すと言う具体性は皆無で目障りな者は思想や真意を確かめることなく手当たり次第に殺す幕末の尊皇攘夷の志士並みの幼稚で過激なものでしたが、その遺志を継いだ旧制・佐賀中学校と海軍兵学校の1期後輩の三上卓中尉や両方の3期後輩の古賀清志中尉などの信奉者たちが昭和7(1932)年5月15日に首相官邸を襲撃して犬養毅首相を殺害しました。戦後の歴史書では「5・15事件は三上中尉が首謀者」とされていますが単なる実行犯でした。
- 2022/02/05(土) 15:10:01|
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