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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月13日・日本陸軍の前身・御親兵を創設した。

明治4(1871)年の明日2月13日(太陰暦)に天皇=国家が統括・指揮すると言う意味で大日本帝国陸軍につながる御親兵が創設されました。
古事記・日本書紀の神武東征などでは天皇が自ら軍(みいくさ)を指揮したことになっていますがあくまでも神話の世界に過ぎず、史実としての国家直轄の軍は664年に始まった防人(さきもり)制度が端緒でしょう。余談ながら野僧は「自衛官」と言う意味不明(自衛隊所属の公務員以上の意味はない)の肩書よりも「防人」の方が体を表しているので自費で印刷していた名刺では「空の防人」「防人(航空)」で通していました。
その後、律令国を統治する国司制度の確立と共に治安維持や海賊などに対処する押領使が派遣されるようになり、それが独自の軍を保有するようになると天皇や有力公家は武家を個別に雇用して武力を保持することになりました。それが幕末の戊辰戦争まで各藩単位の軍として機能していたのですが、文久2(1863)年に京都の治安悪化の原因が御所の警護を担当している毛利藩の過激藩士であることを知った孝明天皇の側近が皇室直轄の軍の必要性を幕府に訴えて10万石以上の各藩に1万石に1名の割り当てで兵を出させて設置されたのが最初の御親兵でした。ただし、この御親兵は会津藩が京都守護職として上洛することが決まると半年で廃止されました。
続いて大政奉還後の慶応4(1868)年に鳥羽伏見の戦いが発生して京都が反乱軍の手中に落ちると禁門の変で御所警備の任を解かれていた毛利藩が御所の警護に復帰して御親兵を名乗りました。しかし、これも戊辰戦争が東北と四国に拡大して反乱軍が京都から派遣されると十津川藩士の400名に縮小され、明治天皇の東京移住で廃止されました。
そして明治新政府が成立すると明治3(1870)年に毛利藩の山県有朋参議が島津藩の大久保利通参議に反乱軍の島津・毛利・山内の各藩兵(鍋島は島津・毛利と対立していた)を中心に国家の直轄軍を創設することを提言し、大久保参議は翌年に鹿児島に隠棲していた西郷南洲翁を上京させました。その背景には統一国家としての体裁を整えるには江戸時代までの各藩が独立国家として機能している統治制度を解消する廃藩置県を断行しなければならず、反抗する藩を武力で制圧するための強力な軍が必要だったのです。
こうして上京した西郷翁は島津藩の歩兵4個大隊と砲兵4個隊、山内藩の歩兵2個大隊と騎兵2個小隊に砲兵1個隊、そして毛利藩の歩兵3個大隊の計8000人程度の部隊にかつての反乱軍大総督だった有栖川宮熾仁親王を長に迎えて新・御親兵を創設しました。
その後、廃藩置県で戦闘員としての武士(実際は行政や事務職、土木工事などの実務を担っていた)は消滅し、併せて徴兵制度によって国家としての軍が拡大されると御親兵は近衛師団になりましたが、所詮は反乱軍が作った軍だけに無用の戦争を繰り返した揚句に74年後の昭和20(1945)年にこの国家自体を滅ぼして解体されました。
ちなみに大日本帝国陸軍を旧軍と呼ぶならば新軍に相当する陸上自衛隊の前身の警察予備隊が創設されたのは昭和25(1950)年8月10日なので2022年の夏には72年になり、遠からず大日本帝国陸軍を超えて名実共に国家の防人になります。
  1. 2022/02/12(土) 15:22:42|
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