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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月18日・宗教改革の言い出しっ屁・ルターの命日

1546年の明日2月18日に宗教革命の切っ掛けを作ったマルティン・ルターさんが生まれ故郷のドイツ中部のアイスレーベンで亡くなりました。62歳でした。
ルターさんは1483年にアイスレーベンで炭鉱業を営む両親の次男として生まれ、カソリックの習慣で生後間もなく洗礼を受けたのがヨーロッパ人としては初めて列聖された聖マルティヌス(ローマ帝国の軍人でフランス北部のアミアンに出征した時、凍えている物乞いに羽織っていたマントを半分に切り裂いて与えるとそれがイエスだったと言う「マントの奇跡」を経験した)の祝日だったためマルティンと命名されました。
ルターさんの父親は貧しい家庭で育ちながら一代で財を為したので上昇志向が強く、息子たちを立身出世させようと学校に通わせ、ルターさんも1501年に法律家になるべくエアフルト大学に進学しました。ところが家を出て大学に向かう途中の草原で激しい雷雨に遭い、落雷の恐怖に聖アンナ(=イエスさんの祖母)に助けを請い、修道士になることを誓ったことで父親の猛反対を押し切って聖アウグスチノ修道会に入ったのです。
修道会でもルターさんの学究的な性質は変わらず聖書を哲学として深く読み込み、その真摯な信仰と学識が評価されて1506年には33歳で司祭に叙位されました。しかし、司祭になって初めてミサを務めた時、ルターさんは「弱く小さな人間に過ぎない自分がミサの主役として巨大なカミと対峙すること」に恐怖を覚え、やがて「どれだけ熱心に修道生活を送り、祈りを捧げても心の平安は得られない」と確信するようになりました。この確信は司祭として大学の教壇に立つことで哲学的に発展し、その答えとして聖パウロの使徒言行録「ローマの信徒への手紙」で説かれている「カミの義」に至りました。「カミの義」とは「どれほど禁欲的な生活を送り、罪を犯さないように務めても絶対正義の存在であるカミの前では自分の『義』を唱えることはできない」と言う概念であり、ルターさんは「人間は善なる行為ではなく信仰によってこそ義とされる。人間を義とするのはカミの恵みである」と言う結論によって自己を解放したのです。
ところがその頃、ドイツではカソリックの国内最高位であるマインツ司教が聖職位を得る工作資金を稼ぐため商人出身の教皇・レオ10世と結託して贖宥状(しょくゆうじょう=日本では「免罪符」と訳していますが、免ぜられるのは「罰」であって「罪」ではありません)を大量に売り捌いていました。贖宥状は第1次十字軍を命じた教皇・ウルバヌス2世が出征する将兵に与えたのが始まりで、十字軍が終結してからはキリスト教の祭礼などでカソリックの高位者が信仰態度を認めた者に与えるようになっていましたが、それが堕落して巨額な寄付を信仰心として売るようになっていました。これに対してルターさんは1517年の明日10月31日に修道会の玄関に贖宥状の販売を弾劾する教皇・レオ10世宛ての95箇条の質問状を掲示しました。これが宗教改革の発端とされています。
もう1つルターさんは41歳の時に「聖書は使徒の結婚を禁止していない」と26歳の修道女を還俗させて結婚すると3男2女を儲けてプロテスタントの教役者や牧師(聖職者とは呼ばない)が家庭を持つ先駆けになっています。
  1. 2022/02/17(木) 16:05:28|
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