1997年の明日2月19日は「不管黒猫白猫抓住老鼠就是好猫=黒猫でも白猫でも鼠を捕る猫が好い猫だ」の現実主義で現在の共産党中国を造った鄧小平同志の命日です。
鄧小平同志は1904年に四川省で漢民族系の裕福な地主の息子として生まれました。1920年に16歳でフランスが第1次世界大戦後の労働者不足で募集した勤労学生として留学するとロシア革命の炎が飛び火していたヨーロッパで結成された中国少年共産党に加盟し、21歳を過ぎてヨーロッパ地区の指導者になると1926年1月にソ連へ逃亡し、東方勤労者共産大学でマルクス主義を学び、中国国民党が開設していたモスクワ中山大学では蔣介石総統の息子で後の蔣経国2代台湾総統と親交を結びました。
鄧小平同志は「フランスでの貧困生活で背が伸びなかった」と言いながらも満喫していたようで同じく留学していたベトナムのホー・チミンさんに案内された店で買ったクロワッサンが大好物になり(赤ワインとチーズも)、職場で憶えたトランプのコンタラクトブリッジは党と政治の職を辞した後も協会の名誉主席を務めた一生の趣味になりました。
1927年に帰国すると毛沢東同志に従って農村でのゲリラ戦を指揮しましたが、モスクワの指令で都市部の攻略を進める他のソ連からの帰国者によって失脚させられています。
1935年に周恩来同志の尽力で復帰すると実際は敗走である長征に参加し、その後は日本軍と国民党軍の戦闘のおこぼれに与るような軍功を挙げ、1946年から1949年の国共内戦では日本軍との長期戦で消耗していた国民党軍を撃破して共産党の勝利に貢献し、1952年には毛沢東同志から政務院副総理に任命されて着々と地位を上げていきました。
ところが毛沢東同志が大躍進政策の数千万人の餓死者を出す失敗で退陣すると主席に就任した劉少奇同志と共に経済と生産の復興に取り組みますが、1966年に文化大革命を起きるとこれを「革命の否定」と批判されて失脚したのです。
それでも経済が行き詰まった1973年に周恩来同志によって呼び戻されますが、1976年1月に周恩来同志が亡くなった4月の清明節に市民が供えた花輪を4人組が撤去させたことで起こった第1次天安門事件の首謀者として失脚しました。しかし、同年9月に毛沢東同志が死亡して文化大革命が終結すると再々々度復活して「豊かになれる者から豊かになれ」とする改革開放路線に政策を反転させて現在の経済大国にしてしまいました。
現在、鄧小平同志の悪事とされているのは1982年6月の香港返還交渉でイギリスの錆びた鉄の女のマーガレット・サッチャー首相を「水源と電力を止める」と恫喝して本来は大陸側の九竜半島だけだった返還対象をイギリス領の香港島を含む全土にする一方で「一国二制度でイギリス式民主主義は維持する」と約束しながら現在の大弾圧への道筋を作っていたことと「ソ連のゴルバチョフ政権のペレストロイカ=民主化が共産党体制の崩壊を招く」と言う勝手な危機感から胡燿邦同志の追悼のために天安門前広場に集まっていた1989年6月4日に学生を武力で排除しようとして結果的に大虐殺になった第2次天安門事件です。もう1つ、来日時の視察で松下幸之助会長に懇願して進出させた松下電工の工場が反日暴動で徹底的に破壊された亡恩行為も鄧小平同志の責任になっています。
- 2022/02/18(金) 15:54:26|
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