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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月27日・京都の共産党による長期府政・蜷川虎三京都府知事の命日

昭和56(1981)年の明日2月27日は敗戦後の京都府を7期28年間にわたり共産党の支配下に置いた蜷川(にながわ)虎三知事の命日です。
明治から大正にかけて日本は文明国に加わるため多くの科学者をヨーロッパに留学させましたがマルクス主義が大流行していた時期でもあり専門馬鹿たちは簡単に染まってしまいました。それでも国費で留学した科学者たちは帰国すれば帝国大学で教壇に立つため最先端の科学のついでにマルクス主義も教えたのですが東京帝国大学は政府当局の監視が厳しくロシア革命が勃発して治安維持法が成立すると地下に潜ることになりました。ところが関西地方では政府の関心は専ら商都・大阪に向いていたため京都帝国大学には目が届かずたちまちマルクス主義が蔓延することになりました。そして京都帝国大学の学閥に属した広島帝国大学や名古屋帝国大学に波及し、各帝国大学と人事交流があった師範学校を通じて周辺地域にも拡散したのです(東北帝国大学や九州帝国大学は東京帝国大学の学閥)。
また1000年余の歴史を誇る京都では明治政府と東京遷都は認めておらず、地方からの成り上がり者が作った政権が間違っていたことが敗戦で証明されたと考えていたので占領軍によって共産党が合法化されると即座に強固な支持基盤が構築されたのです。
蜷川知事は明治30(1897)年に現在の東京都江東区木場の裕福な材木商の息子として生まれ、農商務省水産講習所=現在の東京海洋大学を卒業して京都帝国大学経済学部に進学し、大正12(1923)年に卒業すると昭和2(1927)年に助教授になりました。この時、マルクス経済学に染まり、ドイツへ留学したことで芯まで染め抜かれたようです。帰国後は経済学の博士号を取得し、昭和17(1942)年に教授になって経済学部長で終戦を迎えると自ら「戦争責任を取る」と称して退職し、昭和23(1948)年からは吉田茂内閣の中小企業庁長官に就任しています。しかし、根っからのイギリス式資本主義者の吉田首相とマルクス経済学者の蜷川長官が上手くいくはずがなく昭和25(1950)年に辞任すると社会党公認、共産党系の全京都民主戦線統一会議推薦で京都府知事選挙に出馬して当選し、ここから7期連続28年間の長期府政が始まりました。
蜷川府政は簡単に言えば「日本国憲法の完全実施」で、府庁内に日本国憲法の前文の全文を書した屏風を置き、年頭の記者会見をその前で行うのを恒例にしていました。このため共産党は現在も「蜷川府政の成功が日本国憲法の理想を追求する共産党の政策が実現できることの証明である」と主張していますが、京都が他の地方自治体に比べて有利だったのは戦災を受けていなかったため復興予算を必要とせず、地場産業が存続していた上、観光資源が豊富なので共産党が標榜する軽負担・重福祉の政策が可能だったことです。実際、日本の復興が進んで国民の生活に余裕が生まれると京都には多くの観光客が押し寄せて多額の金を落とすようになり、蜷川府政も観光客誘致の公費での広報やブランド品の開発に励んで東京の自民党政権が進める高度経済成長の恩恵を吸収しまくりました。
その一方で支持基盤である県教組や自治労には甘い顔をして京都府の地方公務員の厚遇は同じ支持基盤の美濃部亮吉知事だった頃の東京都と双璧でした。
  1. 2022/02/26(土) 14:23:20|
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