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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月28日・昭和の文豪4人が文化大革命を批判した。

昭和38(1963)年の明日2月28日に5年後にノーベル文学賞を受賞する川端康成先生以下、石川淳先生、安部公房先生・三島由紀夫先生の昭和の文豪たちが共産党中国で吹き荒れ、日本にも押し寄せていた文化大革命を批判する声明を発表しました。
文化大革命は農業や工業ではズブの素人で労働の経験もない毛沢東同志が勝手な思い込みで指導した大躍進政策の結果、農業生産が壊滅的打撃を受けて1500万人から7000万人の餓死者を出した責任を負って国家主席を退陣した後、産業復興のため劉少奇同志と鄧小平同志の新指導部が自由主義の競争原理を取り入れた政策を「修正主義」と批判して狂信的な若者たちを私兵化して起こした人類史上最大の凶事です。
ところが中国国内の情報が入ってこない日本でも毛沢東同志を神格化して崇拝する東京大学の菊池昌典名誉教授や辻村明名誉教授、早稲田大学の安藤彦太郎教授や新島淳良教授、菅沼正久長野大学名誉教授、秋岡家栄元朝日新聞記者、西園寺公一元ソ連のスパイなどの言論人や文化人が手放しで礼賛し、左傾マスコミや教育者も同調したため共産党中国の実態を知らずに親近感を植えつけられていた多くの国民はそれを信じていました。一方、日本共産党は毛沢東同志が「日本も反修正主義=資本主義打倒を正面から掲げろ」「日本でも文化大革命を始めろ」と扇動し、北京放送や日中友好協会、日中貿易を通じて対日干渉が始まると「内政干渉である」とこれを拒否して相互に批判の応酬になりましたが、山口県委員会(野坂参三委員長や宮本顕治委員長は山口県出身)から派生した共産党左派は資本主義を容認する日本共産党指導部を批判しました。また60年安保闘争が終結して次の展開を模索していた学生運動の活動家たちは文化大革命を武力革命と誤解して銃砲店で強奪した銃器で山中の軍事訓練を始めるなど組織を軍隊化するようになったのです。
そんな文化大革命では知識や教養がない紅衛兵や同調する若者たちが興奮状態の勝手な感覚で資本主義の信奉者と疑った職場の管理職や知識階層の人たちを公開で糾弾する人民裁判が全国各地で繰り広げられ、多くは逃れようがないことを自覚して批判されている事実を認め、自己批判の後に頭に罪状を書いた帽子をかぶらされて市内を引き回される晒し者にされましたが、1966年4月14日の全国人民代表会議で古代から現代までの中国史を研究して優れた論文を多数発表し、作家としても中国近代文学に大きく貢献していた郭沫若同志が「今日の基準から言えば私が過去に書いたものにはいささかの価値もない。全て焼き尽くすべきである」と自己批判させられたことが報じられて、多くの文学者が文化大革命を絶賛していた中で当時から海外で高く評価されていた安部公房先生と三島由紀夫先生、ベストセラー作家の石川淳先生、そして三島先生の師匠である川端康成先生(本人は政治には無関心だった)が連名で「われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えてここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、(中略)学問芸術を終局的に政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する」と言う抗議声明を発表したのです。
しかし、1970年代の日中友好ブームの中で共産党中国の建国者である毛沢東同志の凶行は隠蔽され、多くの日本人が実態を知ったのはNHKの「大地の子」の放送でした。
  1. 2022/02/27(日) 13:16:15|
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