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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月1日・日露陸戦の関ヶ原・奉天会戦が始まった。

明治38(1905)年の明日3月1日から満洲軍司令官・大山巌元帥が開戦に当たり「本戦役の関ヶ原とならん」と訓示した奉天会戦が始まりました。
奉天会戦の戦力は攻撃する日本軍が24万人だったのに対して防御する帝政ロシア軍は36万人と言う戦術の常識に反する会戦でしたが、それには旅順要塞の攻囲戦で予定外の大損害を出して兵員だけでなく武器弾薬も底を尽いて補給の見込みも立たず、逆にロシア軍はヨーロッパに全軍の半数の主力が残っていてシベリア鉄道で増員することが可能な現状に満洲軍の大山元帥と児玉源太郎総参謀長の「これ以上の戦闘の継続は無理」「早期停戦のために決戦で勝利を収める」と言う戦略的判断がありました。
日本軍は全満洲軍を動員して奉天の正面に展開しましたが、2月21日に左翼側の奥保鞏大将の第2軍が攻勢をしかける準備をしていたロシア軍に奇襲的先制攻撃を加え、小競り合いの前哨戦が始まりました。こうして主導権を獲得したと判断した満洲軍司令部は奉天の左右から攻撃を加えることでロシア軍の戦力を二分させ、手薄になった正面を突破すると言う奇策を用いましたが、正面主力の攻勢も満洲の厳寒で秋に土を掘って構築した陣地が凍ってコンクリート製のように堅牢になり、砲弾が跳ね返されて容易に破壊できず、火薬が低温で発火力が低下するなどの悪条件が重なって戦果を上げることができないまま膠着状態に陥りました。一方、ロシア軍は司令官のクロパトキン大将が難攻不落と自信を持っていた旅順要塞を陥落させた乃木愚将の第3軍を過大評価していて、戦力を消耗し切った状態で参戦していたにも関わらず多数の部隊を派遣したため乃木第3軍は甚大な損害を被ったものの敵の主力を主戦場から引き離す戦功を上げました。
満洲軍司令部は膠着状態を打開するため乃木第3軍、特に秋山好古少将の騎兵旅団に奉天北方に迂回して退路を遮断する命令を与え、これを察知したロシア軍は即座に撤退を始めましたが、これはナポレオン軍をロシアの冬将軍に壊滅させた伝統的戦略の踏襲でした。
ところがこの撤退に激怒したロシア皇帝がクロパトキン大将を解任したことで欧米のマスコミは「ロシア軍の敗北」と報道するようになり、満洲軍司令部の目的は達成されました。しかし、損害を比較すると日本軍が戦死者15892名、負傷者59612名なのに対してロシア軍は戦死者が半数の8705名、負傷者51438名、俘虜を含む行方不明者28209名であり、「奉天を占領した」と言っても自発的に撤退して空き家になったところに入り込んだに過ぎず、軍事的評価としては勝利とは言えません。
おまけに東京の山県有朋元帥や桂太郎大将=首相ほかの山口陸軍閥はこの戦果に有頂天になって山口県人の長岡外史中将に屯田兵を率いさせて樺太を占領しただけでなく満洲軍にウラジオストックの占領を提案してきたため山口県人の児玉総参謀長が急遽帰国して「満洲軍=日本軍は継戦能力を喪失しており、早期停戦以外に日本が存在する道はない」と説得してようやく戦線拡大を思い止まらせることができたのです。
そろそろ日本人は欧米の軍事・歴史研究家の大半が日露戦争を日本が局地戦での辛勝を重ねただけで国家の勝利とは見ていないことを再認識するべきでしょう。
  1. 2022/02/28(月) 15:50:10|
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