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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第111回月刊「宗教」講座・南方佛教経典「スタニパータ・ダンマパタ」シリーズ第11弾

ダンマパタ第61句「学(がく)に朋類無く善き友を得らずんば、寧ろ(むしろ)独り善を守り愚かを偕(とも)にせざれ=学ぶのに仲間がおらず、善き友を得ることができないのなら、むしろ独り善き生活を守り、愚か者を友にするべきではない」
この句はスタニパータ第47句「われらは実に朋友を得る幸せを讃め称える。自分よりも優れ、あるいは等しい朋友には親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ罪過のない生活を楽しんで犀の角のようにただ独り歩め」と同趣旨ですが、野僧はこれを読むと野僧は愛知県宝飯郡一宮町(現在の豊川市)の一宮中学校で過ごした3年間を思い出してしまいます。野僧は今でも現世の三悪道そのものだったあの中学校で過ごす羽目になったことを「人生の奪われた3年間」と思っていますが、まさしく「学に朋類なく」でした。
野僧は愛知県岡崎市の矢作南小学校を卒業しましたが、こちらは第1回文化勲章を受章した世界的物理学者の本多光太郎博士の出身校で、博士から贈られた校訓「つとめてやむな」を学校生活の支柱として分野を問わず「第2の本多となれ」と自学研鑽と刻苦奮闘を教えられ、鍛えられてきました。また小学校三年からは文部省の児童が予習してきた内容を発表し合って討論するドルトン式教育の研究指定校になり(永野修身元帥が学校長だった時に海軍兵学校でも採用された)、教員は授業の司会進行と発表内容に誤りがないかの確認、そして欠けた点を補足することが役割になりました。そのため児童たちの探求心は極めて強くなり、興味を持ったことは徹底的に追及しないといられなくなり、授業の合間にも色々な知識をぶつけ合い、内容の高度さを競い合うことを楽しむようになったのです。6年生の時、ナスカの地上絵が話題になると拡大図法を実証するために校庭に描くことになり、それを全校生徒がベランダから眺め、応援してくれました。
そんな小学校を卒業した野僧は両親が出身地に家を建てたため一宮中学校に入学することになったのですが、この学校での授業は教員が言うことを生徒は黙って聞いてノートに取る野僧には未体験の標準的な形式でした。しかし、野僧は小学校で身についた旺盛な探求心と「言いたいことを言わないのは臆病者だ(好きな女の子に告白するのも同様)」と言う岡崎の三河武士の気風で疑問点をその場で質問すると教師たちは「授業妨害」「自分への挑戦」と受け取って「後で職員室に来い」とだけ答えるようになりました。当然、野僧は職員室に行って質問をしたのですが、他の教員たちが取り囲んで威圧し、苦手な科目の教員は「お前は馬鹿なんだから余計なことを質問する暇があったら必要な勉強をしろ」と指導し、「そんな知識は高校受験には出ないぞ」が質問への答えになりました。
教員たちに嫌われた野僧は同級生だけでなく全校生徒の苛めの対象になり、常に監視されて何気ない仕草や無意識に発した言葉を「特異な言動」として学校中に広め、さらに小学生の野僧の妹と同級生の弟や妹に「お前の兄貴は」と告げ口させて、家で両親に報告させる念の入れようでした。
運動部でも先輩が「千本ノック」と称して(野球部ではない)ボールをドッジボールのようにボールを周囲から一斉に投げつける苛めが繰り返され、それを顧問が見ても「鍛えてやれ」とけしかける始末でした。
そうなると野僧は放課を図書室で過ごすようになり、興味を持った本を次々に読破していったのですが、同級生たちが「図書係の女子が好きだ」と言う噂を広めたため好きでもない相手とつき合うことになりました(その女子は真剣に読書する姿に好意を持ってくれたらしい)。
そんな一宮中学校にも野僧の多岐にわたる知識に興味を持って家に呼んで雑談を楽しむ同級生ができたのですが、小学校の同級生ではない野僧を見た母親が本人に身元を訊ね、ついでに優等生なのかを確認すると野僧は得意な科目は常に満点でも苦手な科目は1問か2問しか正解がない両極端な成績だったため序列は決して高くなく、同級生が正直に答えると「馬鹿な子に間違ったことを教えられると受験の邪魔になる」とつき合いを禁止したのです。
それは一宮中学校に限った話ではなく野僧は小学生時代、歌人の祖母の血統なのか詩や短歌が得意で、学研や小学館の児童雑誌のコンテストで入選して、詩集や歌集を愛読するようになったのですが、中学校で国語の教師が詩を東三河地区の生徒・児童の作品集に推薦すると「中学生が習ってもいない古語を知っているはずがない」と盗作を疑って落選させたのです。このような土地では「学に朋類」を探すのは無理な相談で、「愚かを偕とせず」独りを守って図書室に籠って探求心を燃え立たせているのが正解でした。
ちなみに高校受験は愛知県の学区制で岡崎の高校は受験できず、通学可能な1駅でも遠い場所の高校として蒲郡高校を選びましたが、岡崎の矢作南小学校では「物知り博士」と呼ばれていながら一宮中学校では教員以下全校生徒から顔を見知ったPTAにまで馬鹿にされていた野僧が三年間の半分を生徒会の役員を歴任することになりました(役員ではない時は部活動に励んでいた)。
それでも大学受験は親が高校3年の夏に家を改築して貯金を遣い果たし、妹が私立高校に入ったため下宿や長距離通学しなければならない遠方の大学は受験できず、蒲郡での3年間は見ないですんだ一宮町の山が視界に入り、聞かなかった地名が学生の会話に出る大学へ進学することになり、入学した時点で中退を考え始めて地元には基地がない航空自衛隊に就職家出することになりました。決して大学や法学科が嫌だったのではなく、3年間逃れていた一宮町の気配を感じるようになったことに耐えられなかったのです。
釋尊の時代も弟子たちは色々な事情で入門してきたはずで、複雑な人間模様の中で様々な問題があったのでしょう。釋尊も気苦労が絶えなかったのかも知れません。
矢南小校訓本多光太郎博士から贈られた校訓 
本多光太郎先生本多光太郎博士
  1. 2022/03/01(火) 14:43:48|
  2. 月刊「宗教」講座
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