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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月2日・ノーベル賞の誤りを実証した山極勝三郎博士の命日

昭和5(1930)年の3月2日は戦前に現在も人間の死因のトップである癌の研究でノーベル賞の有力候補になりながら受賞を逃した山極勝三郎博士の命日です。
同時期には金属物理学の本多光太郎博士やビタミンの生成に成功した鈴木梅太郎博士も有力候補になっていましたがヨーロッパの学界=ノーベル賞選考委員会のアジア人蔑視や稚拙な論文の翻訳が受賞を遠ざけていて鈴木博士は同じビタミンの研究者でもオランダ人のクリスティアーン・エイクマン博士が仮説理論だけで受賞しています。さらに山極博士の場合は同じ癌の研究でも誤った学説を唱えたデンマーク人のヨハネス・フィビゲル博士が受賞しているので現在もノーベル賞を絶対視している日本人は目を覚ますべきでしょう。おまけにヨーロッパの学界の差別体質によって学術研究や芸術が正当に評価されないことを問題視した日本政府が文化勲章を制定したのは昭和12(1937)年なのでこちらも間に合いませんでした(本多博士は第1回、鈴木博士は第3回で受章している)。
山極博士は文久3(1863)年に現在の長野県上田市で藩士の3男として生まれました。大政奉還・廃藩置県によって士分がなくなると上田城下で開業していた医師の養子になって医術とドイツ語を学び、明治13(1880)年に東京大学予備門、明治23(1885)年には東京帝国大学医学部に入学して首席で卒業すると明治29(1891)年には助教授になりました。翌年からドイツに留学してハインツ・ヘルマン・ロベルト・コッホ博士やルードルフ・ルードヴィヒ・カール・フィルヒョウ博士の指導を受け、帰国後は明治33(1895)年に教授に就任しました。
専門は病理解剖学でしたが癌の研究においては日本の最高権威でした。当時の世界の医学界では癌の原因を癌になりやすい組織的特性とする素因説と環境によって発生すると言う刺激説に分かれていて、山極博士は煙突の掃除夫の腕に皮膚癌が発生し易いことに着目して刺激説を取り、兎の耳にコールタールを塗り擦ると言う地道な実験を3年余り続けた結果、大正4(1915)年に世界で初めて人工的な癌を発生させることに成功しています。ところがヨーロッパの学界では前述のフィビゲル博士が寄生虫によって人工的に癌を発生させたと発表していて、多くの研究者がマウスで山極博士と同じ方法を試みても失敗していたためフィビゲル博士の成功が脚光を浴びることになり、1926年のノーベル医学賞が贈与されたのです。この時、専門家としての意見を求められたスウェーデンの医学者は2人の同時受賞を提言しましたが、後に「ノーベル賞選考委員会は公然と『アジア人にノーベル賞を贈るのは時期尚早だ』と反論した」と研究成果よりも自分たちの常識や政治的利益を優先する現在も変わらないノーベル賞の実態を証言しています。
しかし、1952年になってアメリカの研究者2人がフィビゲル博士の病変はビタミンA欠乏症の兎が寄生虫に感染した時に起こる変化であって病的な癌ではないと発表し、またマウスの皮膚は兎の耳に比べて癌を発症しにくいことも判明して山極博士の研究成果の正当性が証明されましたが、フィビゲル博士の遺族が賞を返上することはなく(本人は1928年に没した)、ノーベル賞委員会も追加贈与することはありませんでした。
  1. 2022/03/02(水) 15:24:15|
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