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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月4日・日蓮宗テロリストの坊主・井上日召の命日

昭和42(1967)年の3月4日は戦前の日蓮宗カルトのテロ事件を策謀し、戦後も右翼団体を指導していた井上日召坊主の命日です。
井上坊主は明治19(1886)年に群馬県の利根川場村(「とね・かわばむら」と読む)で士族の医者の3男として生まれました。旧制前橋中学校を卒業して早稲田大学に進学したものの中退し、続いて東洋協会専門学校(後の拓殖大学)に入学しますがこちらも中退しました。そうして明治42(1909)年に南満州鉄道に入社して大陸に渡ると諜報活動に従事したと言っていますが、当時の満州には日本の本格的な諜報組織は存在していなかったので社員として働く傍ら命じられたことを調査した程度でしょう。
大正8(1919)年に海軍の航空機搭乗員だった兄が事故で殉職すると翌年に帰国して右翼団体に加盟し、その翌年には武市半平太くんの土佐勤皇党や中岡慎太郎くんの陸援隊に参加して洗脳された尊皇攘夷の右翼政治屋の紹介で茨城県大洗町の立正護国院の住職になりました。ここで日蓮上人の予言めいた教えを引用して「世界恐慌と冷害の未曾有の災厄で日本が滅亡しないためには体制打破しかない」と強弁して地元の教員たちやその教え子の帝国大学生などの信奉者を集め、その名が東京でも知られるようになると兄の教え子の海軍内の右翼過激派の士官たちの訪問を受けるようになり、「国家改造のためには暴力による社会の破壊以外に道はない」と言う狂気に同調して昭和7(1932)年に井上坊主と大洗町の門弟に東京帝国大学と京都帝国大学の学生たち16名によるテロリスト集団「血盟団」を組織しました。ただし、この団体名は裁判で検察官が教団的組織として呼称するためには用いた造語で自称ではありません。
「血盟団」では「1人1殺」を掲げて海軍の右翼過激派の士官と共に西園寺公望元老、幣原喜重郎前外務大臣、若槻礼次郎元総理大臣、徳川義達貴族院議長、牧野伸顕内大臣、井上準之助元大蔵大臣、団琢磨三井合名会社理事、犬養毅総理大臣ほかを各人に割り当てる形で標的に選んで実行の時を窺っていましたが、第2次上海事件が勃発して海軍士官の同士が出征したため民間人だけで実行することになり、大陸に出張した海軍士官に拳銃と実弾を調達させました。そうして先ず門弟の1人が井上準之助大蔵大臣を立会演説会場で射殺し、続いて別の門弟が団琢磨理事を三井銀行の玄関で射殺しました。事件後、井上坊主は首謀者として出頭すると無期懲役の判決を受けましたが、昭和15(1940)年の紀元2600年の祝賀特赦で釈放されています。
警察はこの事件の捜査で海軍内の右翼過激派の士官の存在と「血盟団」との共同テロの計画を察知しましたが陸海軍軍人の犯罪捜査は陸軍憲兵隊の所管であり、憲兵隊も軍法会議が陸海軍で分かれていたため消極的な態度に終始し、5・15事件を防ぐことはできませんでした。むしろ首謀者の1人の事情聴取を5月16日と通知したため焦った実行犯が前日に決行したと言われています。
井上坊主は戦後も昭和29(1954)年に濱口幸雄首相の暗殺犯たちと右翼団体「護国団」を結成しましたが、2年で引退して後ろ盾の援助を受けながら老後を過ごしました。
  1. 2022/03/04(金) 14:59:21|
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