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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月5日・江戸庶民の知的水準の高さ!歌川国芳の命日

文久元(1861)年の3月5日は江戸の庶民の知的水準の高さを現代に伝える作品を遺した浮世絵師・歌川国芳さんの命日です。
国芳さんは寛政9(1798)年に江戸日本橋の本銀町で染物師の息子として生まれました。国芳さんは幼い頃から町絵師について学び、7歳頃には武者絵を模写して売るようになり、12歳の時に描いた「鍾馗提剱図」が華麗な役者絵で人気を集めていた歌川豊国さんの目に止まり15歳で弟子入りを許されて画技を大きく飛躍させることができました。豊国さん門下の間は絵草子や戯作本の挿絵などで画才を発揮して入門2年目の文化10(1813)年頃に刊行された戯作者や浮世絵師を相撲の番付に模したランキングでは前頭27枚目に格付けされています。しかし、器用貧乏が災いしたのか役者絵や美人画などの多岐にわたる注文に見事に応えても固定客ができず、やがて生活は困窮して心機一転を図ったのか葛飾北斎さんに傾倒するようになりました。
実は国芳さんは東海道五十三次や名所江戸百景などの風景画の傑作を遺した歌川広重さんとは同じ年齢なので活躍した時期も重なりますが、北斎漫画(本来は絵の手本)の影響を受けたのか広重さんの真面目な作風を嘲笑するような洒落や滑稽味を加えた作品が数多くあります。ところがその面白さを満喫するには幅広い知識を必要としたので国芳さんの作品が爆発的人気を博したことが江戸の庶民の知的水準の高さの証明になっているのす。
例えば広重さんの東海道五十三次や木曾街道六十九次に対抗するように今で言うパロディー版を刊行していますが、東海道シリーズでは出発点の「日本橋=にほんばし」を広重さんがスナップ写真のように道の中央から橋を渡る多くの通行人と共に描いているのに対して国芳さんは猫が鰹節を1本は咥えてもう1本は前足で押さえている図で、これを「二本出汁=にほんだし」と題しています。同様に「大磯=おおいそ」では猫が巨大な烏賊を口で引っ張っている図で題名は「重いぞ=おもいぞ」です。木曾街道シリーズではこの駄洒落に教養が加わり、「今須=います」では曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を襲う場面で兄の五郎が先に工藤の寝所に入った弟の十郎に「仇は居るか」と問うと「居ます=います」と答えたと言う歴史物語を知らなければ理解不能の駄洒落です。「追分=おいわけ」では東海道四谷怪談のお岩が抜け落ちて血が滴っている毛を両手に持っていて「お岩の毛=おいわけ」ですが、視線が手に持っている毛に向かう構図は流石です。「大井=おおい」では仮名手本忠臣蔵で追剥ぎに身を落とした斧定九郎が道を行く老人を「おーい」と呼び止めて「おおい」です。「守山=もりやま」では達磨大師が腹を膨らませて盛り蕎麦を食べていて、空になったザルが山のように積み上げられているので「盛り蕎麦の山」で「もりやま」です。そして終点の京都では平家物語から源三位頼政の鵺(ぬえ)退治を描いていますが、画面のほとんどは迫力満点の鵺(頭は猿、胴は狸、足は虎、尾は蛇)で英雄・頼政さんは端っこで芥子粒ほど小さく弓を引き絞っています。兎に角、かなり古典を勉強していなければ笑えず、逆に笑えた江戸の庶民の教養には感服せざるを得ません。
スタジオ・ジブリの「平成狸合戦ポンポコ」に登場する巨大髑髏も国芳さんの作品です。
  1. 2022/03/05(土) 15:32:34|
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