「ボンズ、その服装は佛教の聖職者のユニフォームなんですね」梢との夜の散歩で出会った巡回中の警察官が今更のように質問してきた。最近は梢も定年退官で帰国した時に寄った東京の法衣店でもらってきたカタログで注文した女性用の作務衣を愛用していてペア・ルックになっている。「ユニフォームと言ってもワーキング・クローズ(作業着)だよ。それでもカジュアル・ウェア(普段着)でもあるからフォロー・フォーマル(正装に準ずる衣類)にはしているな」ファッションに疎い私の英語の説明に梢は訂正と補足をする準備をしながら聞き耳を立てている。そこで私は唐突に出番を作ってしまった。
「襦袢は英語で何て言うんだ」「・・・アンダー・クローズ・オブ・キモノ(着物の下着)かしら。洋服で言えばワイシャツみたいなイメージよね。ワイシャツはドレス・シャツよ」「ラージャ(判った)、下にジャパニーズ・ドレス・シャツを着て、首にブッディズト(佛教者)・ネクタイを掛ければフォロー・フォーマルだよ」要するに作務衣の下に襦袢を着て浄土宗なら威儀細、禅宗なら絡子、真言宗や浄土真宗なら輪袈裟を掛ければ他の寺院を訪問しても失礼にならない程度の服装になる。実は坊主業界には正式な儀式用の法衣よりも袖が小さく、細身に作った改良服があるのだがオランダの警察官に説明する必要はなさそうなので触れなかった。しかし、今までは自衛官として軍人に接触する機会が多かったが、今後は宗教関係者になれば法衣も買い揃るべきかも知れない。それでも知り合いの大寺院の住職が法衣と袈裟を値段で「ベンツ」「クラウン」「カローラ」などと区別し、逆に私が法衣店で最も安価な法衣や作務衣を注文すると店主が「メーカーが持ってきたから置いていたけど、こんな安物を買うお坊さんがいるとは思わなかった」と呆れていたくらいなので出費がかさみそうだ。実は現在の私は自衛隊を定年退役して意外に高額だった2佐の退職金だけでなく、自衛官の間は副業を禁じられていたため公庫に振り込まれていた国際刑事裁判所の次席検事としての給与も受け取って成金になっているのだが、それは梢と老後に暮らす家の購入資金にする予定なので浪費はできない。
「それで坊主の服装がどうしたんだね」私の苦しい説明では予備知識を持たない警察官には理解できないようなので唐突な質問をしてきた理由に話を換えた。すると警察官はマスクを摘まんで息を吸ってから答え始めたが、目つきが厳しくなったので私も心で身構えた。
「実はアムステルダムで日本人の僧侶が経営しているザゼン・トレーニング・センターが中国人と韓国人のデモ隊の投石を受けて窓ガラスが割られる被害を受けたんです。その被害者が同じ服装だったので確認しました」その事件はニュースや新聞で見て知っているが、あの坐禅道場をザゼン・トレーニング・センターに英訳しているのには疑問がある。アムステルダムで開業しているのは曹洞宗の坊主のはずなのでザゼン・リフレッシュ・センターの方が適切だろう。曹洞宗の黙照禅は無目的に坐ってストレスを解消する以上の目的や効果はなく、臨済宗の看話禅のように強靭な精神力を培い、現実を冷静に客観視する達見に至るための修行ではないのだ。
「新聞やニュースでは報じられていませんが、オランダ国内に限らずヨーロッパ各地で日本人の住居や乗用車が投石や放火される事件が続発していているんです。防犯カメラの映像を確認しても厳重に変装していて身元が特定できないのですが、体格から見て東アジアの人間ではないかと推理しています」「ワシはマンション住まいで自家用車を持っていないが放火は危ないな。何より周囲に迷惑がかかる」私の見解に警察官は「日本人」を感じたようで顔を見合わせてうなずいた。ところが梢は険しい目をした私の横顔を見詰めた。私が梢と引き裂かれ、美恵子に押し切られそうになっていた頃、沖縄では自衛官が入居している特別借り上げ住宅のアパートで乗用車の放火事件が頻発した。当時、沖縄では海邦国体が迫り、県が自衛隊に支援を要請したことに反発する反戦平和団体がデモや集会を繰り返し、通勤する自衛官の車両の前でブレーキ・ランプが点灯しないようにサイド・ブレーキを引いて急停車して追突させるなどの抗議活動を繰り返していた。それでも地元マスコミは単なる物損事故であっても「また自衛官が追突事故」と大きく報道していた。陸海空自衛隊は活動家が制服や帽子を目印にしている対策として私服での通勤を認めたため次の手段が特借りアパートでの私有車の放火で、これも関係する市役所内の自治労の活動家が漏洩した自衛官の住居や私有車のナンバーの情報を駆使した狙い討ちだった。しかも私の同僚はスキーの沖縄県代表として冬季国体に出場している留守に被害に遭っている。梢も別れていたとは言え自衛官を狙らった卑劣な犯行に怒ってくれていたようだ。
「それで日本人に退去を求めるような借家のオーナーは出ているのかね」「日本人は被害者ですからそれはありません」沖縄の連続放火事件では地元マスコミが被害に遭ったアパートの家主にインタビューして「自衛官を入居させていることに不安を感じませんか」と感情を誘導していたが同じ回答を返していた。あの頃の日本人は平成の30年間で腐り果ててしまった。
- 2022/03/09(水) 16:18:55|
- 夜の連続小説9
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