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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月11日・天目山で甲斐武田家が滅亡した。

天正10(1582)年の明日3月11日(太陰暦)に武田勝頼さん・信勝くん父子と北条家から嫁した勝頼さんの正室が天目山で自害して清和源氏新羅三郎義光さま以来の嫡流・甲斐武田家が滅亡しました。
勝頼さんは晴信=信玄公が自ら滅ぼした信濃国諏訪の領主の娘を側室にして生ませた4番目の男子で、公家の三条家から嫁してきた正室との間に生まれた嫡男が謀反の疑いを受けて幽閉されて自害、二男は盲目で出家し、養子に出された三男は11歳で若死にしたため傍流でありながら家督を継ぎました。
勝頼さんは長篠の合戦の大敗以降、坂道を転がり落ちるような連戦連敗の挙句に滅亡した後半生しか語られないため愚将の代表のように思われていますが、実際は父譲りの戦さ巧者でその自信過剰を危惧して晴信公は「自身の死は3年間秘匿せよ=その間は嫡男・信勝くんの後見人として防戦に徹して領土経営に努めよ」と自重を促す遺言を与えたとする説もあります。実際、武田家の遺臣・高坂弾正昌信さんが長篠の合戦の直前に勝頼さんへの諫言として著述したと伝わる「甲陽軍鑑」では家を滅ぼす4種類の大将として1に「馬鹿なる大将=愚鈍な大将」、2に「利発過ぎる大将」、3に「臆病たる大将=弱い大将」、4に「強過ぎる大将」を挙げていて、その具体例として1は今川氏真さん(今川義元さまの嫡男)、2は武田義信さん(晴信公の自害した嫡男)、3は上杉憲政さん(長尾景虎=上杉謙信公の養父の関東管領)、そして4は勝頼さんとしています。
晴信公亡き後、勝頼さんは遺命を守って攻勢に出ることなく領土経営に努めていましたが、「領主ではなく後見人に過ぎない」と言う噂が広まると侮る重臣が続出ししたため1年後に晴信公も攻め落とすことができなかった遠江国の高天神城を攻略したことで自信過剰に陥り、信濃国から木曾街道=中山道沿いに織田信長公の美濃国に侵攻を始め、これが本来は西に向いていた信長公を振り向かせる結果になりました。
こうして火縄銃の弾丸の材料である鉛を産出する睦平鉱山を奪うために近傍の長篠城を攻囲すると織田・徳川連合軍の本格反攻を受け、武田家累代の重臣の大半を失う大敗北を喫して晴信公の卓越した人心掌握と適材適所の人事に依って鋼鉄の結束を誇っていた武田家は内部崩壊を始めたのです。その後は信長公が東照神君・家康公を通じて北条氏を抱き込んだ包囲網を作ると対峙していた国境の領主たちが内通を始め、それに重臣も加わって天正10(1582)年3月の徳川・北条・織田軍の進攻は中から招き入れられる形になりました。織田軍を迎撃するため信濃国へ出陣していた勝頼さんは甲府まで敗走しましたが、つき従う手勢はすでに100人を切っていて逃げ込もうとした親族・重臣からも次々に裏切られ、行き場を失った挙句に室町時代前期の応永24(1417)年に当主・武田信満さまが幕府と関東管領=鎌倉公方の追討軍に攻囲されて自害した天目山(この時は「木賊山」と記されている)に向かい、ここで追っ手を斬り伏せた僅かな間に自害したのです。
なお、勝頼さんは自害に先だって嫡男の信勝くんの元服をすませていないことに気がついて源氏嫡流の証である盾無しの鎧を着せて儀式を行ったと言われています。
孫子の旗・盾無しの鎧盾無しの鎧と孫子の旗
  1. 2022/03/10(木) 15:56:33|
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