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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月11日・世界的な名君中の名君・上杉鷹山公の命日

文政5(1822)年の3月11日は海外で広く出版された内村鑑三さんの「代表的日本人」や新渡戸稲造さんの「武士道」で取り上げられたことで世界的に「日本の名君中の名君」として崇敬を集め、現在も多くの政治家や企業経営者が上に立つ者の規範としている出羽国米沢藩主・上杉鷹山(ようざん)公の命日です。ちなみに鷹山は藩主を退いて総髪(髷を結うことを止める=準出家)にしてからの号で藩領の白鷹山から採ったそうです。
鷹山公は寛延4(1751)年に現在は航空自衛隊新田原基地がある日向国高鍋藩主の秋月家で生まれた九州男児です。日向秋月家は豊後国の大友家と対峙する島津家の重臣で、関ヶ原の合戦では西軍として大垣城を守っていましたが、東軍勝利の情報を掴むと他の西軍の将兵を皆殺しにして開城した軍功で2万石の所領を安堵されています。この所領は水田耕作に向かない丘陵地帯で歴代藩主は慢性的な財政難に苦しみながらも真摯に藩政に取り組み、高鍋藩を継いだ鷹山公の兄も名君として知られています。藩士たちも貧困生活を送りながら藩主を支え、やがて他藩の知識人から「高鍋で学者と名乗るな、論破されて恥をかく」と畏れられるほど高い教育水準を持った藩として幕末を迎えました。
一方、上杉家は言うまでもなく越後の竜・長尾景虎=上杉謙信公の姉と養子の景勝さんに始まる血筋ですが、政治的に無能だったため豊臣秀吉さんの時代に会津120万石に移封され、関ヶ原では毛利輝元さんと一緒に石田三成さんに利用されて東照神君・家康公と敵対したため米沢15万石に大幅減封されています。それでも天領と他藩領になった越後には戻れず、東北には近親縁者もない藩士たちが上杉家に留まった上、大大名だった時の栄華が忘れられず質素倹約に背を向けた生活を送っていたため秋月家以上の慢性的な財政難に陥っていて養父になった前藩主は藩籍奉還=領地の返納を真剣に考えていました。
鷹山公は10歳で米沢藩主の養子になりましたが、その背景には秋月藩の江戸藩邸で生まれて間もなく生母が亡くなったため米沢藩主の叔母に当たる祖母に養育され、世継ぎがいなかった前藩主に娘婿(=知的障害者だった)にするように勧めたことがありました。
明和3(1766)年に元服すると翌年に藩主を継ぎ、秋月家式の藩政改革に着手しましたが補佐役に有能な人材を招聘すると藩士たちが強硬に反発してお家騒動に発展しました。それでも鷹山公はひるむことなく使命に邁進し、それまで1500両だった藩主の生活費を209両に削減し、衣類は年中木綿、食事は粥2杯(蕎麦も多かった)と漬物で干し魚をかじり酒は飲まないなど常に模範を示したことで従わざるを得なくなり(それでも「小藩出身の貧乏根性」と陰口を叩かれていたそうです)、後は家訓歌「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」でした。
鷹山公の藩政改革は「領地・領民は藩主の私有物ではない」と言う認識に基づいて先ず自分で努力する「自助」、周囲と協力する「共助=互助」、そして最終手段として公的支援の「公助」を基本原則としていましたが、「公助」を権利としている現在の日本では政府や地方自治体の長が「自助」を口にすれば「責任の放棄」「不公平」などと批判されます。その意味では江戸時代の方が治世者と庶民のレベルが高かったのかも知れません。
  1. 2022/03/11(金) 16:44:28|
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