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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月19日・空襲で国宝・名古屋城が焼失した。

昭和20(1945)年の明日3月19日の名古屋大空襲で昭和5(1930)年に24棟が城郭としては初めて国宝に指定されていた名古屋城が焼夷弾によって炎上し、本丸御殿を始め大天守、小天守、東北隅櫓、正門、屋根から下して避難させていた金鯱まで焼失してしまいました。
名古屋城は駿河の今川義元さんの父親の氏親さんが尾張に侵出する拠点として現在の城内2ノ丸の位置に砦を築いたのが始まりで、織田信長さまの父親の信秀さんが奪って整備して那古野(なごや)城になりました。しかし、尾張の領主の居城は清州城であり、その後、信長さんが稲葉山城=岐阜城を経て安土城に移ったため那古野城は廃城になっていました。ところが東照神君・家康公は4男・忠吉さんが尾張を与えられて清州城に入ったものの跡取りがないまま病没したため後任の9男の義直さまの新たな居城として名古屋城を築くことにしたのです。築城工事は加藤清正さん、福島正則さん、黒田長政さん、細川忠興さん、毛利秀就さん、前田利光さん、鍋島勝茂さん、加藤嘉明さん、浅野幸長さん、池田輝政さん、蜂須賀至鎮さん、金森可重さん、竹永重利さん他の20人の豊臣恩顧の大名に割り当てられましたが(最大の敵対勢力・島津さんは前年に沖縄に侵攻していたため外された)、軍資金を使い果たさせる目的があったとは言え仮想敵に城の内部構造まで知られることになり、これは家康公の天下人としての自信が為せる業だったのでしょう。また名古屋城はそれまでの城のように迷路や隠し門などは用いず城壁は直線で城内も広々としていますが、これは攻防戦が鉄砲によって行われることを想定した設計思想です。
そして大天守(名古屋城では「御天守」と呼んでいた)は五層五階・地下1階で天守台の19・5メートルと建物の高さの36・1メートルを合わせた55・6メートルは13階建てに相当し、向かいにある愛知県庁の39・79メートルを上回ります。また延べ床面積1338畳は後に建てられた江戸城=千代田城よりも大きく日本最大で、外観は鉄砲狭間(発射口)や石落としを隠し、千鳥破風を重ねて優美でも防御力を強化するため窓を小さくし、厚さ30センチの土壁と12センチの欅板で覆った最強の城塞でもあり、当時の建築技術の粋を結集したまさしく国宝でした。
名古屋には軍需工場が集中していたため(=現在も)昭和17(1942)年4月18日に航空母艦から発進したB-25爆撃機による日本本土初空襲でも2機が飛来して死者2名、負傷者31名が出ていて、昭和19(1944)年7月にサイパン島などのマリアナ諸島の日本軍が自滅して本土空襲が本格化すると同年12月13日から昭和20(1945)年4月7日まで7回にわたり執拗に空襲を繰り返しましたが、日本軍も迎撃戦闘機や高射砲部隊を集中させていて低高度からの精密爆撃は困難で、爆弾の命中精度が落ちることから焼夷弾を多用するようになってそれが名古屋城の焼失につながりました。
焼失後の名古屋城は小林橘川市長が「2度と焼失しないように」と鉄筋コンクリートで外観のみを再建しましたが、河村たかし市長が木造での復元を計画しているものの文部科学省が国の特別史跡になっている現在の模造建築物の撤去を認めず停滞しています。
  1. 2022/03/18(金) 15:55:58|
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