「副知事が命を失うような危険な業務に上原を選んだのは何故ですか」副知事が続いて県警本部長に電話をかけるとこちらは国家公安委員会=警察庁から連絡を受けていて即座に応諾した。副知事が電話を切ると待っていたかのように上原の直属上司に当たる監査委員が入室した。
「これは外交問題だ。相手の主張を聞きながら非を指摘することに習熟している監査の上原が適任だと考えたんだ。それに十分な事前調整をしている時間がないから臨機応変の対応が必要になる。その点でも上原は優れている」「副知事が上原を高く評価して下さっていることは有り難いのですが、上原には家族があります」これは副知事自身が悩んでいたことだった。警察官も妻帯者だけでなく独身でも親兄弟はあるがこちらは危険な職務を納得しているはずだ。その点、事務職として県庁に就職した上原にとって危険を前提にした職務は災害発生時の現場確認くらいだ。それでも副知事は詭弁に近い答えを返した、
「あくまでも外交交渉だ。それに県警の機動隊を護衛につける。危険とは限らない」「しかし・・・」「副知事、県労組の委員長が来ています」監査委員が言葉に詰まったところに秘書室の女性職員が声をかけた。すると副知事の答えを待つことなく県庁職員の労働組合の委員長が女性職員を圧し退けるように入ってきた。
「上原を釣魚群島に上陸した中国人民との交渉に派遣するそうですね」「そうだ。あくまでも外交交渉だ」労組の委員長は歩み寄ることなく机の前に立っている監査委員の背中越しに声をかけてきたので副知事は同じ返事をした。それにしてもこの労組の委員長は尖閣諸島を中国側の名称で呼び、国民とは言わず人民と呼んでいる。副知事は一瞬この人間に交渉を命ずれば友好的に解決するような気がしたが、それは大きな勘違いだった。
「釣魚群島を日本の領土だと主張しているのは内地の自民党政権だけで琉球人は中国共産党に返還するべきだと考えています。そうすれば琉球と中国の人民が漁業資源を共有分配できて平和的に解決するんだ。どうしても釣魚群島の占拠を継続したいと言うのなら日本政府が代表者を派遣するべきであって上原を含めて沖縄県が関与することには県庁労組として断固反対します」副知事としては上原に危険な任務を命じたことに抗議してきたのかと思っていたが尖閣諸島の領有そのものに反対しているらしい。その時、副知事の机の電話が鳴った。
「はい、これは知事」受話器を取った副知事の口から「知事」と言う肩書がでると流石に監査委員と労組の委員長も緊張した顔になった。
「上原の件ですか・・・はい、あくまでも県警だけで逮捕と強制排除を目的に対処すると・・・判りました」知事からの電話は今回の交渉は外交問題でありながら政府は上原の職務権限を明確にせず、失敗に終わった時の責任の所在も示していないため拒否すると言う政治判断だった。知事にも東京から連絡が入り、関係者から相談を受けているのかも知れない。沖縄県的には常識的な判断だが、副知事個人としては新型コロナ・ウィルス感染症への対応では本土の他の地域以上に手厚い支援を受けているだけに少なからず良心の呵責を感じた。
「余計な仕事が解除されたから迷わず任務を遂行しろ」1時間を要することなく那覇空港のヘリポートから飛び立った沖縄県警の3機のヘリコプターの機内では指揮官である警部補の小隊長が航空無線を使って部下たちに訓示していた。
「2010年9月7日に尖閣で巡視船に衝突した中国の漁船の船長は海軍の軍人だった。だから今回も漁民に化けた軍人と考えた方が良い。発砲してこなくても刃物を使って抵抗してくる可能性は高い」警部補の説明に機動隊員たちは緊張した顔でうなずいた。この頭の動きが揃っているところでも団体行動の練度が判定できる。
「鉄鉢(てっぱち=防弾ヘルメット)と防刃チョッキで保護されるのは頭部と胸部だけだ。したがって近接戦闘に慣れた敵は頸部を狙ってくるはずだ」今回は平和的に交渉に当たる県庁職員の警護を目的にして急遽編成したため防弾用ではなく軽量で動きやすい防刃チョッキを着用している。拳銃と弾薬は機内に残し、状況が悪化した時点で待機要員が配ることになっていた。
「漁民たちが暴れた時には催涙ガスで制圧するんでしたね」「そうだ。だからガス・マスクも携行しているんだ」警部補の返事に全員が腰に提げたガス・マスクを手で押さえた。
「しかし、無事に着陸できるんでしょうか」「海上保安庁の巡視船が撃沈されたじゃあないですか。相手は海軍の巡洋艦ですから対空戦闘も訓練しているはずです」「ウカーサン(危険)さァ」日頃は弱音や不安を口にしない機動隊員たちも戦闘の可能性を実感しているようで次第に表情が曇り、最後には最近はあまり聴かなくなった沖縄方言を呟いた。警部補とパイロットも出発時に尖閣諸島への接近と着陸に関する中国側の安全の保障は確認できていない。航空無線を使っているのは警部補だけなので1番機の機内だけに重苦しい空気が充満した。
- 2022/03/20(日) 14:44:50|
- 夜の連続小説9
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