昭和24(1949)年の明日3月22日に市川雷蔵さん主演で昭和41(1966)年公開の映画「陸軍中野学校」では加東大介さんが演じた校長・草薙中佐(本人は細目だったものの雰囲気は似ていた)に当たる実際の初代所長=校長だった秋草俊少将が抑留先のソビエト連邦モスクワ州のウラジミール監獄で病没しました。54歳でした。
秋草少将は日清戦争が始まった明治27(1894)年に栃木県足利市で生まれ、幼い頃に東京の同族(=同姓)の養子に出されました。就学年齢になると陸軍の依託学生として東京外語学校で学び、卒業後はハルビンに留学して修了後は陸軍参謀本部、関東軍特務機関などの諜報畑で活動したようです。
ヨーロッパではナチスが第1党になってヒトラー政権が成立し、日本が国際連盟を脱退した昭和8(1933)年に正式にハルピン特務機関の補佐官に就任するとソ連情報の第1人者として日本陸軍の諜報活動を指揮するようになりました。しかし、当時の日本陸軍は第1次世界大戦を通じて軍事力に留まらない国家の全機能を動員する総力戦を学んだヨーロッパ諸国とは違い正規軍による通常戦しか頭になく、日露戦争でも明石元次郎大佐ほかの海外駐在員の諜報と工作が影で大きな力を発揮していたことは忘れていました。
ところが陸軍がナチス・ドイツに学ぶようになるとヒトラー総統が政権を奪取するまでに繰り広げ、政権を握ってからも続けている宣伝戦や諜報の絶大な成果に驚き、それに対抗するイギリスの防諜(MI5)と諜報(MI6)機関の実力を知り、さらに満洲や日本国内でもソ連の諜報要員の暗躍が確認されると岩畔豪雄(いわくろひでお)中佐=後の少将は「諜報謀略の科学化」と題する意見書を陸軍参謀本部に提出し、これを受けて遅れ馳せながら情報戦を遂行する専門要員の育成に着手することになったのです。そうして設立されたのが後の陸軍中野学校(名称は東京府中野区の電信隊跡地に所在したため)、当初は偽名として後方勤務要員養成所でした。秋草中佐は同様の任務を負っていた岩畔中佐や福本亀治中佐などと手分けして教育内容を策定し、教官要員の選定と依頼に当たりましたが、その中には先祖代々の甲賀流忍術宗家の当主も含まれていました。
その後、秋草大佐はヨーロッパでは第2次世界大戦が始まっていた昭和15(1940)年にドイツへ渡り、昭和17(1942)年には満洲と朝鮮半島の国境線を担当する第4国境守備隊長、昭和18(1943)年に少将に昇任して関東軍情報部長=ハルビン特務機関長を歴任しましたが、敗戦時には逃亡を勧める周囲を制してソ連軍に投降してシベリアを横断したモスクワ州のウラジミール監獄に収監されました。
ソ連は捕虜の人道的な取り扱いや階級相応の処遇を与えることを定めているジュネーブ条約を無視して多くの日本兵俘虜を酷寒と栄養失調、過重労働で殺しましたが、高級将校を軍内ブルジョアジーとして劣悪な環境に置きましたから秋草少将だけでなく昭和26(1951)年2月19日には加藤泊治郎中将(大正5年以来、憲兵一筋だったため処遇の違法性に抗議していたとも伝わっています=山口県出身)も同じ監獄で病没し、隣接する市民墓地に並んで埋葬されています。
- 2022/03/21(月) 14:43:10|
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