「海鳥が落ちましたから・・・」「毒ガスか」「まさかッ」警部補は分隊長たちと確認できる状況を分析した。確かに上空まで射ち上がったガス弾が落下傘を開いてガスを噴出しながら降下してくる時、周辺を飛んでいた海鳥が次々に落ちていった。警部補も警察大学校のテロ事件の講義でオウム真理教による松本と地下鉄でのサリン事件の部内限定の証拠映像は見ているが、兵器としての使用にまで踏み込まなかったので、この現象が毒ガスによるものかは確信が持てない。それはベテランの分隊長たちも大差はないはずだ。
「しかし、ガス弾は正規に補給係から受領しましたから毒ガスにすり変わる可能性はありません」「ウチの機動隊は県知事や県庁職員に教員がデモ側に加わっているから遠巻きに監視するだけで催涙ガスを使用することはないんです。だから使用実績は訓練くらいでしょう」分隊長たちは都市部の県警の特殊急襲部隊=SATから移動してきた警部補に沖縄県警の特殊事情を説明した。実際、本土の都道府県警の機動隊では陸上自衛隊以上に大日本帝国陸軍式の神教育が行われていて反政府組織や活動家に対する明確な敵意を共有しているが、沖縄県警ではそれ程でもない。そのため在沖縄アメリカ軍基地の警備には本土から機動隊が派遣されていて、加倍政権が沖縄県警の機動隊を国境離島警備隊に改編するに当たっては隊員の職務能力や服務態度と同時に思想信条も厳選しなければならなかった。
「補給係は金城事務官だな。彼は労組に加入して・・・」治安の維持に当たる警察官は自衛官や海上保安庁と同じく労働組合は結成できないが、事務官は単なる地方公務員として自治体の労働組合に加入することが黙認されている。分隊長の1人がこの推理の糸口を口にした時、警部補の無線にパイロットから通話が入った。
「指揮官の本部への報告を傍受している。早急に現場から離れた方が良い。着陸するから準備していてくれ」「待て、現場検証を・・・」「緊急事態だ。行くぞ」パイロットは警部補の返事を遮って交信を打ち切った。警部補としては先ず倒れている漁民たちの状況を確認して人工呼吸や心臓マッサージなどの蘇生措置を施し、全員の死亡が確認された時点で同時大量殺人事件として現場検証を行い、原因が推理通りに毒ガスの散布となれば成分などの証拠物件を収集しなければならないと考えていた。仮に毒ガスであれば接近するのに防護服や密封式長靴、ゴム手袋が必要になるが、ローターの強力な風圧で地上に残っている有毒成分を吹き飛ばすのを待つべきかも知れない。何よりも着陸したヘリコプターで搬送するべき生存者の確認を優先しなければならなくなった。我が身の安全は二の次だ。
「各分隊長は隊員を指揮して倒れている人間の状況を確認しろ。生存者がいれば蘇生措置を講じなければならないが、地下鉄サリン事件では被害者が吐いた息に混入していたサリンを吸って駅職員が2次被害を受けている。したがって素手で身体に触れることは厳禁、マスクを外しての人工呼吸も厳禁、被服も被害者の身体だけでなく地面や草に触れないように細心の注意を払え」「はい、実施します」分隊長たちも警察官であり、人命救助を優先することに異存はない。何よりも今起こっている事態の原因は自分たちが発射したガス弾であることは明らかで、刑法211条の業務上過失致死罪の加害者となる可能性もあり、そうなれば5年以下の懲役若しくは禁固、または50万円以下の罰金が科せられる。当然、警察官は免職だ。そのためにも人命救助に最善を尽くす必要がある。
すると中国海警の警備船と海上保安庁の巡視船が航行している海域とは逆の空から大型ヘリコプター3機の爆音が響いてきた。上空で停止した1番機からパイロットの声が聞こえてきた。
「馬鹿野郎、何をやっているんだ。海保がガードしている間に逃げるんだ。搭乗隊形で集合しろ」パイロットの言葉に遺骸になった漁民たちまで数歩の距離まで近づいていた隊員たちは顔を見合わせた。警察官の命令絶対も大日本帝国陸軍並みだが、パイロットが警部であることも知っているので警部補の指揮官の命令とどちらを優先するべきかに迷ったようだ。
「日本国沖縄警察に通告する。お前たちは我が中華人民共和国の領土内で化学兵器を使用して漁民を殺害した。速やかに投降しろ、さもなくば・・・」突然、中国海警の警備船から大音響が響いた。海上保安庁の巡視船・おもととこみが撃沈された時と同じく最後まで言い切る前に前後甲板の主砲が火を噴いた。至近距離で並走している2隻はバルカン砲で応射する間もなく船の中央部に命中弾を受けて船橋が吹き飛び、舷側に命中した2弾目が燃料タンクを爆発させて前回と同様に短時間で海中に没した。
「着陸して退避」1番機のパイロットの指揮に2番機と3番機のパイロットが答えたが、操縦する暇もなく次々に砲弾が命中して全機が撃墜された。最後は警備船の魚釣島に対する船砲射撃が始まり、漁民の遺骸と生きている沖縄県警国境離島警備隊1個小隊の隊員を粉砕した。
- 2022/03/23(水) 16:04:04|
- 夜の連続小説9
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0