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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月28日・日本人の愚かさの犠牲者・空閑昇少佐が自決した。

昭和7(1932)年の明日3月28日に第1次上海事変の激戦の中で重傷を負い、意識を失っていた状態で国民党軍に収容され、捕虜になったことを軍人だけでなく一般市民にまで口汚く誹謗された空閑(くが)昇大尉が生還後に訪れた現場近くで拳銃自決しました。
空閑少佐は明治20(1887)年に佐賀県佐賀市の竜造寺家の末裔で江戸時代には代々槍術指南役を務めた家柄で佐賀の乱に参戦した経験がある地方裁判所の監督書記官だった父親の長男として生まれました。
尋常高等小学校を卒業すると広島陸軍幼年学校、中央幼年学校を経て明治43(1910)年に第22期生として陸軍士官学校を修了し(同期には同郷の陸軍の恥・牟田口廉也中将やニューギニア方面軍司令官として降伏・自決した安達二十三中将、永田鉄山軍務局長を斬殺した相沢三郎中佐、水戸徳川家当主の徳川圀順少尉などがいます)、富山にあった歩兵第69連隊に配属されました。その後は北陸を中心に勤務し、昭和3(1928)年に少佐に昇任すると昭和5(1930)年に金沢の第7連隊第2大隊長に就任して昭和7(1932)年1月に発生した第1次上海事変に出征しました。
第7連隊は第1次総攻撃で江湾鎮方面の敵正面を担当しましたが、戦時歌謡「上海便り」にあるようにドイツ軍譲りの塹壕戦に慣れた国民党軍に苦戦し、そこで旅団長から「連隊主力は正面攻撃を継続しながら一部が北側から背後に回り、夜襲による挟撃」を命じられ、空閑少佐の第2大隊が背後に回ることになったのです。
この時、空閑少佐は4個歩兵小隊と1個機関銃小隊で夜襲部隊を編成し、身軽にするため弾薬は必要最小限、食料も現地調達として携帯せずに出発しましたが国民党軍は陣地を後方にも構築していて、夜9時頃に目標地点に到着したものの全周からの機銃射撃を受けて動けなくなり、月明りで記述した戦況報告に援護を要請して伝令に旅団司令部へ届けさせましたが正面攻撃を優先して黙殺され、空閑少佐は2月22日(正面では爆弾三勇士による鉄条網破壊が行われた)の朝に右肩から左脇に抜ける貫通銃創を負って意識を失い、代わって指揮を執った中尉も戦死したため夜になって空閑少佐に土をかけて仮埋葬し、予備少尉が形見として軍刀と拳銃を持って生き残った兵を指揮して撤退したのです。
ところが25日になって中国の新聞に「空閑少佐を捕虜にした」と言う記事が載り、3月16日の捕虜交換で帰還すると師団司令部内に幽閉し、軍法会議で処断するべく取り調べましたが軍規違反は全くなく隠蔽するしかなくなりました。そんな空閑少佐の病床には牟田口中佐などの陸軍士官学校の同期たちから自決を迫る電報や書簡が殺到し、金沢の留守宅にも噂を聞いた市民が押しかけ、投石する者が後を絶たない状態に陥っていました。
そして病床を離れた空閑少佐は3月28日に旅団司令部が用意した車両で連隊長が戦死した場所を参拜した後、随行者を下がらせて拳銃で自決したのです。それでも現地軍の中には「恥知らずは切腹もできないのか」と誹謗する中隊長がいたそうです。
ところが内地では爆弾三勇士の美談が飽きられ始めていたため一躍英雄に祭り上げられて靖国に合祀されたのです。この一件が日本の軍人から捕虜と言う選択肢を奪いました。
  1. 2022/03/27(日) 16:31:05|
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