2007年の明日3月29日はトシオ・ナカヤマ(中山利雄)初代ミクロネシア大統領の命日です。この名前でも判るように日本人の息子です。
ナカヤマ大統領の横浜出身の父親は親戚が経営する貿易会社で働いていて大正11(1922)年にグアム島の駐在員として派遣されましたがトラック島に滞在中に会社が倒産したため日本が第1次世界大戦で連合国側に加わった恩賞でプロシア=ドイツから獲得した南洋群島で製糖業、水産業、鉱山開発を独占していた国策企業の南洋興発に就職しました。翌年にトラック島の北西の離島・ウルル島の酋長の娘と結婚しましたが、ミクロネシアは女系社会で娘の夫が後を継ぐため優秀な日本人を婿に欲しがる家が多く、同様の結婚をした子供たちからはミクロネシア連邦のイマニュエル・モリ第7代大統領、マーシャル諸島共和国のアマタ・カヴァ初代大統領とイマタ・カヴァ第2代大統領、ケーサイ・ノート第3代大統領、パラオ共和国のハルオ・レメリク初代大統領、トーマス・レメンゲソウ第2代・4代大統領、クニオ・ナカムラ第6代大統領などが多数輩出しています。
ナカヤマ大統領は昭和6(1931)年にトラック島で両親の6男1女の3男として生まれました。日本の統治時代の南洋群島には現地人5万人に対して日本人は8万4千人が居住し、道路や港湾、水道などの公共施設の整備や産業の育成と共に学校教育にも力を入れていたためトラック島でも日本人の子供が通う尋常小学校と現地人の子供が通う公立学校が並立していて父親が日本人だったナカヤマ少年は尋常小学校に入学しました。
ところが対米戦争が劣勢に陥るとハワイとフィリピンの中間に位置する南洋群島はアメリカ軍の攻撃対象になり、多くの島々で日本軍守備隊が全滅し、昭和20(1945)年9月2日に日本が降伏すると本州・北海道・九州・四国と周辺の島々以外の領土は植民地として放棄させられ日本人は強制送還されることになりました。ナカヤマ大統領の父親は英語が堪能だったため送還事業に参加し、残留を強く希望しましたが最終便で還ることになり、空襲で焼け野原になった日本に家族を帯同することは諦めて単身で帰国したのです。
その後、母の生まれ故郷のウルル島に戻りますが、「船乗りになって日本へ行き、父親に会いたい」と言う希望がつのり、アメリカ海軍が軍港を置いたチョーク諸島のウェノ島に学校を設置すると聞くと遠い親戚を頼って単独で渡航して、定員外だったため窓の外から授業を聞く聴講生として学び、やがて英語と数学に抜群の成績を上げるようになり、卒業後は中学校の教員、22歳からは信託統治政府の職員に採用されました。
そんな中、ナカヤマ大統領の向学心が父親を慕う気持であることを知ったアメリカ海軍の士官が訪日した時に父親を探して連絡する手筈をつけてくれたのです。そして信託統治政府の奨学金を受けてハワイ大学に進学して「国家建設」に必要な知識を吸収すると在学中の1957年に地方議会の議員に当選し、1961年に国際連合総会に出席した帰路、日本に寄って父親と15年ぶりの再会を果たしたのです。
ミクロネシアが1979年に連邦自治政府となると初代大統領に選出され、1986年に独立を果たすと新国家建設を指導して2期8年の任期を全うしました。
- 2022/03/28(月) 15:00:35|
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