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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第112回月刊「宗教」講座・南方佛教「スタニパータ・ダンマパタ」シリーズ第12弾

スタニパータ第149句「あたかも母が己(おのれ)が独り子を命を賭けて守るように一切の生きとし生けるものどもに対しても無量の意(こころ)を起こすべし」
この句をより深く味わうためには「父母恩重経」を詠めば良いでしょう。ただし、「父母恩重経」はインドや南方佛教の原始佛典には同趣旨の経典・説話は見られず、内容から見て「孝養」を説いた儒教の影響下にあった東アジアで成立したと推察されています。実際、佛教を受容するに当たって皇帝から下問を受けた儒学者たちは「王位を捨て、妻子を捨てて出家した釋迦には人の道を説く資格がない」と答えていて、若き日の釋尊が王位と共に妻子さえも疎ましい存在と思っていたのは確かで、出家を思い留ませるように生まれた息子には「ラーフラ(差し障りの意)」と言う名前をつけています。また釋尊は母の摩耶夫人が出産のため帰国する旅の途中でビロー樹の木陰で休憩している時、花に手を伸ばした右脇から生まれたとされていて、これは大量の出血を伴う難産だったことの比喩とされているように生後7日で顔を見知らぬまま死に別れています。その後は父が再婚した母の妹の摩訶波闍波提(マハプラージャパティー・ゴータミー)に育てられますが、感受性が強い繊細な子供には善き母であろうと努力する姿さえも違和感を覚えたのかも知れません。それでも釋尊は人間に限らず獣や鳥、魚たちが子供を懸命に養育し、特には天敵から守ろうと囮になり、敵うはずがない相手に戦いを挑む姿を愛でていて、この句も人間に限定する必要はないでしょう。
野僧がそのことを実感したのは小庵で飼っていた黒猫の音子(ねこ)の子育てでした。音子は娘の若緒(にゃお)が生まれると精一杯の愛情を注ぎ、成長すると自分の尻尾を猫ジャラシにして遊ばせるようになり、少しずつ高い所へ登ることを教え(まず手本を見せてから下で見守っていた)、さらに成長するとカマキリやバッタを捕まえてきて玩具に与え、狩りの基本を教え始めました。蛇を捕まえてきた時には驚いている若緒の背後で身守り、頭部を叩いて弱らせる手本を見せていました。そんな音子と若緒は同じ大きさになっても常に寄り添って眠り、しまいには同じ姿勢で眠るようになりました。
ところが発情期が来た雌の野良猫に集って来た雄の野良猫が避妊手術をしている若緒を苛めるようになり、追われて車道に飛び出して事故死してしまいました。遺骸を連れ帰って音子に見せましたが、何も言わずに外に飛び出していったのです。それからは若緒がいた場所を確認して回り、死ぬ数日前に下りられなくなった隣家の倉庫の屋根に上って確かめ、それを終えてからは寒風が吹く季節だったにも関わらず若緒の墓の前で終日過ごすようになったのです。
その後、下関市内で個人として捨て猫の保護に当たっている女性が若緒と同じ柄の子猫を捨てに来たので命が帰って来るように寿来(じゅらい)と名づけました。寿来は遅れて生まれたのか一緒に連れていた別の子猫よりも身体が小さく(若緒と比較しておそらく一ヶ月頃)、他の捨て猫から苛められていたようで成猫の音子に攻撃を仕掛けたのです。すると音子は寿来と距離を置き、自分は台やソファーの上で過ごすようになり、寿来が立ち入ることを許さなくなりました。そうして時折、厳しく躾けてケジメを教えるとやがて若緒と同様の親子になりました。しかし、音子は再び姿を現した若緒を殺した雄の野良猫を追跡したのか、普段は絶対に近づかなかった車道に飛び出して事故死してしまいました。すると寿来は音子の遺骸にすがるように離れず、葬儀の後、埋葬する時には土をかけている野僧の腕に飛びついて阻もうとしたのです。
その一方で野僧はこの句を読むと言い知れようのない哀しみと悔しさに打ちのめされてしまいます。何故なら野僧が人生の時間を重ねざるを得なかった女性、母親と親が押しつけた同居人はどちらも母性を持ち合わせておらず、そんな暗黒の夜空を覆う雲の切れ間からのぞいた月明りのような亡き妻との暮らしはあまりにも儚かったからです。それでも野僧は妻亡き後、3歳だった愚息と三年間の父子家庭生活を楽しみました。
野僧が父子家庭になったことを知った在日米軍の恩師2人はワザワザ春日基地まで会いに来て「海外で父子家庭はトレンドになっている。日本人でその流行に乗った君は世界標準の人物だ」「普通の家庭では子育てと言う人生最高の喜びを妻と分け合わなければならない。それを独占できる君は幸福だ」と励ましてくれました。確かにそのおかげで炊事洗濯ご飯炊きの家事だけでなく下着についた便や漏らした尿の始末にも慣れて、小浜の専門僧堂では新入門の修行僧に与える嫌行(苦行と言うよりも嫌がらせ)だった東司(とうす=便所)の汲み取りも全く平気で、むしろ一緒に肥桶を担いでいる他の修行僧が便と尿が混じった臭いに吐き気をもよおしながら滴が飛び散るのを嫌がっているのに苦笑していたため「喜んでいる=ただ者じゃあない」と評判になって、他の修行僧から「嫌じゃあないのか」と訊かれると「人間が糞袋であることが実感できて面白い」と答えたため新入門でありながら一目置かれてしまいました。さらに典座(てんぞ)の排水溝の掃除の時も同様で、他の修行僧がゴム手袋をはめて顔を背けながら網に引っ掛かって腐りかけている残飯を取り除いているのに代わって素手で手早く処理したので、別格扱いされるようになってしまいました。しかし、母親は我が子の便を見て健康状態を確認し、尿を便器でするように躾けるので汚いと言う意識はなく、それが母性愛=母親の慈しみなのでしょう。それは男性でも子供への愛情があれば実践できるようです。
た・音子出産音子出産
尻尾が玩具・15・6・6尻尾を玩具に
ね0・室内に蛇教材の蛇
は・母子抱擁・15・12・25母子の音姿
父母恩重経 
ある時、佛、王舎城の耆闍崛山中に、多くの弟子とましましければ、もろもろの大衆きたり集り、佛の教を聴かんとて、一心に宝座を囲み、世尊のみ顔を仰ぎ見たりき。
佛のたまわく、大地の土の多きが如く、この世に生を受くるもの多けれど、中にも人間と生まるるは、爪の上の土の如く稀なり。この故に人のこの世に生まるるは、宿業を因とし、父母を縁とせり。父にあらざれば生まれず、母にあらざれば育てられず、子の心身は父母に受く、この因縁の故に父母の子を思うこと、世間に比ぶべきものあることなし。
母、胎児をみごもりしより、十月の間、血を分け肉を分ちて、子の身体を作る。身に重き病をわづろうが如く、起き伏し、もろもろの苦しみを受くれば、常に好める飲食衣服を得るも愛慾の心を生ぜず、唯、一心に安産せんことを思う。月満ち日足りて出産の時至れば、陣痛しきりに起りてこれを促がし、骨ふしことごとく痛み、あぶらあせしきりに流れて、その苦しみ堪えがたく、これがため忽然として母の身を亡ぼすことあり。父もおののき怖れ、母と子とを思い悩む。若し子安らけく生まれ出ずれば、父母の喜び限りなく、貧しき人の財宝を得たるが如く、その子こえを発すれば母も初めてこの世に生れ出でたるが如し。それより母の情を命となし、母の懐を寝床となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となす。その量、一百八十石なりと。子飢える時、食を求むるに母にあらざれば食わず、渇く時、飲みものを求むるに母にあらざれば飲まず、寒き時、着物を加うるに母にあらざれば着ず、暑き時、着物をとるに母にあらざれば脱がず。母はその身の飢える時にも自ら取らず子に食わしめ、苦きものは自ら飲み甘きものは子に与う。母、寒さに苦しむ時も脱ぎて子に着せ、霜の夜、雪の暁にも乾ける処に子を廻し、湿れる処に己伏す。母の懐に或は衣服に不浄する時あるも、自ら洗いそそぎて厭うことなし。母にあらざれば養われず、母にあらざれば育てられず。母、或は水を汲み、或は火をたき、或は耕し、或は商い、もろもろの勤めに出でて、家に帰るの時いまだ至らざるに、今やわが子家にありて泣き叫びて、我を恋い慕わんと思い起こせば、胸さわぎ心おどろき、二つの乳ながれいでて、忍び堪うること能わず、遂に家路につく。その子はるかに母の来るをゆりかごに見れば、頭をうごかし手を振り、外にあれば匍い出で、そら泣きして母に向う。母は子のために足を早め身を曲げ、長く両手をのべ、わが口を子の口につけつつ、乳を出だして之を飲ましむ。この時、母は子を見て歓び、子は母を見て喜び、母子の心情互に一致し、恩愛の深き事これに過ぐるものなし。
母の懐を離れて初めて歩く時、父に教えられずば、火の身を焼くことをも知らず、母に導かれずば、刃物の指を傷つけることをも知らず。乳を離れて初めて食う時、父にあらざれば、毒の命を落すことをも知らず。母にあらざれば、薬の病を救うことをも知らず。父母外に出でて馳走を得ることあれば、自ら之を食うに忍びず、持ち帰りて子を呼びて之に与う。十たび帰れば九たびまで得、得れば常に喜びかつ笑いかつ食う。もし過りて一たび得ざれば、泣きて父にせまり母に訴う。わが子やや成長すれば学に進ませ職を考う。友と相交わるに至れば、父は服を求め帯を与う、母は子の髪を飾り身を装う、親のよき衣服をみな子に与えて着せしめ、親はふるき衣やぶれたる服をまとう。子ゆえに愛に溺れ、智慧の眼くらみ、悪道に入る親もあり。若し子遠くへ行けば帰りてその顔を見るまで、出でても入りても之をおもい、寝ても覚めても之を思う。子病み悩める時は子に代わらんことを思い、死して後も子の行末を護らんことを誓う。花の如き母も若さに光る父も、寄る年波の重なりて、いつか頭に霜をおき、衰え給うぞ涙かな。ああ、有り難きかな父母の恩、天の極りなきが如し。
この時、弟子の阿難、座より起ち、佛にもうして申さく、世尊よ、かかる有り難き父母の恩を、我等いかにして報ずべき。つぶさにその事を教え給え。諸人よあきらかに聴け、孝養の事は在家出家の別あることなし。或は言う、親は己の好みによりて子を生めば、子は親に孝養のつとめなしとかや、されどこは人の道にそむくものぞ、真の親は子について報謝を求めず、自らの功を誇らぬものなれど、子はひたすらに孝養をつとむべし。子縁ありて妻をめとらば夫婦は特に親愛し、私房の中に楽しむ。父母はその円満なるを喜ぶなれど、心ひそかに子と疎遠になるを憂う。父母年高けて気老い力衰えぬれば、倚る所の者は唯子のみ、頼む所の者は唯嫁のみ、されば朝に夕に優しき言葉かけこれを慰めよ。或は父は母を先立て母は父を先立てて、独り空房を守り居るは旅の独り寝の如く、常に恩愛の情なくまた談笑の楽しみなし、夜半ふとん冷えて身安からず、暁までも眠られぬ淋しき時もあれば、父よ肩を母よ腰をさすらんものよと申し出でよ。父母はその言葉を聞きて嬉しさに涙せん。外に出で珍しきものを得れば、持ち帰りて父母に供養せよ、父母之を得て歓び自ら食うに忍びず、先ず佛法僧の三宝に供養せば菩提心をおこさん。父母病あらば枕辺を離れず、親しく自ら看護せよ。一切のこと之を他人に委ぬる勿れ、時を計り便を伺い、ねんごろに栄養をすすめよ、親しばらく睡眠すれば気を静めて息を聞き、眠り覚むれば医に問いて薬をすすめよ。日夜に三宝を敬い親の病の癒えんことを願い、常に報恩の心を懐きて片時も忘るる勿れ。
佛、更に説を重ねてのたまわく、汝等大衆よく聴け、父母の為に心を尽くし、美味なる飲食、麗しき衣服、心地よき車、結構なる住居等を供養し、一生安楽に飽かしむるとも、若し父母佛道因果の理を信ぜずば、なお真の孝いたるとせず、何となれば、慈悲ありて布施を行い、礼儀ありて身を守り、柔和にして恥を忍び意を平静に保ち、勉めて学に志すものといえども、一たび酒色に溺るれば、不良忽ち隙をうかがい、悪魔時を得て、みだりに資財をつかい、心を乱し、怒をおこさせ、怠りを増させ、智をくらまし、行いを禽獣の如くするに至る。大衆古より今に及ぶまで之によりて、身を亡ぼし家を滅ぼし、主を危くし親を辱しめるもの多し。この故に、子たる者佛の教にしたがい因果の理を信じ、広き世界にただ一人、父と叫び母と言う有り難さを思え、樹静かならんと欲すれど、風の止まぬを如何せん、子養わんと願えども親いまさぬを如何せん、逝ける父をば慕いつつ、苔むす墓に叫べども、答えまさぬぞ哀れなり。ああ、母上よ我をおき、何処に一人逝きますと、泣けど叫べど帰られず、さればもろ人父母のこの世にいます時にこそ、真心こめて尽すべし、父母なき後もひたすらに追善供養おこたらず、生けるが如く仕え奉り、あまねく人を救わんと、慈悲のいとなみ励むべし。およそこれらを以て父母の恩を報ずとなす。
この時、阿難、涙を払いつつ座より起ち、佛にもうして申さく、世尊よ、此の経はまさに何と名ずくべき、又、如何にしてか奉持するべきやと、佛、阿難に告げ給わく、阿難、この経は父母恩重経と名ずくべし。若し世界の人々ひとたびこの経を読めば、父母愛育の高恩を報ずるに足らん。若し一心にこの経の如く信じ行い、又、人をしてかくの如く信じ行わしむれば、この人はよく父母の恩に報じ、一生の間つくれる大小の罪障、みな悉く消滅して佛の道を悟らん。又、この経を読むもの、つぎつぎに他の人に読ましむれば、功徳無量にして人を救い、遂に世界を浄化するに至らん。
この時、この座に集まれるもろもろの大衆等佛の説法を聴いて、みな悉く菩提心をおこし、身を地に伏せ、涙雨の如く、進みては佛のみ足を頂礼し、退きては佛の教を歓び信じ、これを行い奉りたりき。 
  1. 2022/04/01(金) 16:36:07|
  2. 月刊「宗教」講座
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