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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月10日・世界で最も成功したスパイ・ギヨームの命日

1995年の明日4月10日は東ドイツのスパイでありながら西ドイツの首相の秘書にまでなり、「世界で最も成功したスパイ」と呼ばれたギュンター・ギョーム大佐の命日です。
ギョーム大佐はナチス結党から2年後の1927年にベルリンで音楽家の息子として生まれ、17歳になった1944年には入党し、翌年には空軍の高射砲部隊で参戦しました。敗戦後は東ベルリンに居住して写真家になり、その流れで1950年に政府系の雑誌「人民と世界」の編集長になると国家保安省=シュタージにスカウトされて西ドイツに潜入するための教育・訓練を受け、1951年には潜入時に同行する相手として同じ教育・訓練を受けていた女性と結婚し、1952年にドイツ社会主義統一党に入党しました。そして1956年に夫婦で亡命を装って西ドイツに潜入し、フランクフルトで喫茶店を開業しました。翌年にドイツ社会民主党に入党すると妻は同党のヘッセン州南部地区事務所長の秘書になり、ギョーム大佐も1964年から政治指導員として活動する一方でフランクフルト地区の党事務局長になり、1968年にはフランクフルト市議会社会民主党議員団の事務局長に就任して市会議員に当選して党内で頭角を表していきました。
さらに翌年の連邦議会選挙ではフランクフルト選挙区の連邦内閣の交通大臣を卓越した組織運営で高い得票率で当選させたため党中央でも名前を知られるようになりました。そうして交通大臣の推薦で連邦首相府の経済・財政・社会政策担当秘書になって勤勉さと高い事務処理能力でヴィリー・ブラント首相の信頼を獲得したのです。
1972年からはブラント首相の個人秘書になって国家中枢の極秘文書や非公式な報告や調整の内容、さらに首相や閣僚の私生活まで知り得る立場になりましたが、1973年頃から内務省公安局が傍受していた無線通信の解読を進めた結果、1960年代後半からの内容の多くにギョーム大佐が関わっていることが判明したのです。
こうして公安局は内務大臣に「ギョーム夫婦は東ドイツが潜入させたスパイである」と確信を持って報告しましたが「証拠が不十分である」と継続監視を命じただけでした。おまけに内務大臣がブラント首相に公安局の報告とギョーム夫婦を監視下に置くことを説明しても「亡命者は疑われるものだ」と聞き流して秘書の職務を継続させたのです。
そして1年後の1974年3月に公安局が証拠資料を連邦検察庁に提出し、4月25日に逮捕状を公布されてギョーム夫婦の自宅に踏み込むと「私は東ドイツ国家人民軍の士官であり、国家保安局の職員でもある。士官に対する敬意を払いたまえ」と毅然として対応して逮捕されたのです。この事件を受けて5月7日にブラント首相は辞任しました。
その後の裁判でギョーム大佐は国家反逆罪で懲役13年、妻は同罪で懲役8年の判決を受けて服役しましたが、1981年の東西ドイツのスパイ容疑逮捕者の交換で帰国すると英雄として最高位の勲章を受けて後進の教育に当たりました。
東西統一後、東ドイツ国家保安省の対外諜報部門の長は「ギョームを首相の秘書にする計画などなかった。一国の最高権力者の近くに疑惑が濃厚な人物を置くことなど考えられない」と論評していますが、日本では首相本人にも該当者は少なくありません。
  1. 2022/04/09(土) 14:54:02|
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