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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月17日・神話上の女帝・神后皇后が死んだらしい日

古事記・日本書紀によればキリスト教暦4世紀に相当するらしい神后皇后摂政69年=仁徳天皇28年の4月17日に神功皇后が100歳で死去したようです。
そもそも日本が海外の文献に記録されているのはキリスト教暦280年から297年の間に刊行された古代中国・西晋の歴史書の「三国志」の30巻「魏書」の「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」の別称「魏志倭人伝」が嚆矢ですが、そこでは倭の卑弥呼と言う女王が治める邪馬台国が使者を送って朝貢したことが記されていて、まだ統一国家は成立していなかったようです。したがって神道が主張する2680年を超える皇紀はあくまでも稗田阿礼(ひえだのあれ)が記憶していた神話・伝説上の類(たぐい)です。
神功皇后は第13代・成務天皇の治世になって40年後に第9代・開花天皇の玄孫の父と新羅からの渡来人=渡来神の天之日矛(あめのひほこ)の子孫の母の間の4人姉弟妹の長女として生まれたとされています。日本武尊の息子である第14代・仲哀天皇が即位した翌年に皇后になり、そのまま九州の熊襲(くまそ)征討に同行したと言われています。しかし、熊襲は九州全土を支配していたため穴門国(あなと=後の長門)の豊浦津に陣を置き、筑紫国まで侵攻した時に神功皇后が神懸かりになったのです。その神託は「熊襲の痩せた地を攻めても意味はない。神に田と船を捧げて海を渡れば金銀の財宝がある新羅を得ることができる」と言うものでしたが、高台に登っても海の向こうに陸地=国は見えず、仲哀天皇が神託を疑うと「お前は国を得ることができない。皇后が身籠った皇子が得る」と答え、即位から9年後の2月6日に筑紫の香椎(現在の福岡市東区にある香椎宮)の地で熊襲の矢に当たって崩御したのです。一部の日本古代史の研究者はこの年をキリスト教暦の367年と推定しています。
その後は夫の遺志を継いで熊襲征討を続けると3月に九州全域を支配下に収め、10月には筑前の芦屋(現在の福岡県遠賀郡芦屋町)の津から出帆して朝鮮半島に渡り、新羅、百済、高麗を屈服させたとされていますが韓国の歴史学界は全く認めていません。
朝鮮征討から帰国して12月14日に筑前の宇彌(うみ=現在の福岡県糟屋郡宇美町)で後の応神天皇を生んで神託が事実になり都へ凱旋しました。しかし、都に残っていた仲哀天皇の長男と二男が神功皇太后が産んだ皇子に皇位を奪われることを畏れ、播磨国で挙兵して待ち伏せしたため神功皇太后は海路で紀伊国へ向かいそこで髪を切って男装して軍勢を整えると再び海路で播磨に向かい務古川(=武庫川・現在の兵庫県尼崎市)の河口付近に上陸しました。
すると神功皇太后軍の武将・武内宿禰が計略を巡らせ、予備の剣と弓を用意して隠した上で和睦を申し入れ、その証として長男(二男は猪に襲われて死んでいた)の目の前で剣を海中に投じ、弓の弦を切ると長男も自分の軍に同じことを命じたのです。それを見計らって予備の武具で攻撃して打ち破ると琵琶湖岸まで敗走した長男は瀬田で入水自死しました。
その後は幼児で即位した息子=応神天皇の摂政として政務と軍事を取り仕切り、応神天皇が42歳で先立つと15代の仁徳天皇まで摂政を勤め、事実上の女帝として天皇に加えられていましたが大正15(1926)年の「皇統譜例」で除外されました。
  1. 2022/04/16(土) 16:19:00|
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