昭和30(1955)年の明日4月20日は佐賀県人必読の書であり、他県人が佐賀県人を理解する上で最高の参考書である「次郎物語」の作者の下村湖人さんの命日です。
野僧が「次郎物語」を読んだのは中学校で生徒と教員から陰湿で姑息な苛めに遭い、昼休みを教室で過ごすのが嫌になって逃げ込んだ図書室で見つけたのですが、叔父と同じ名前の題名なので興味を持っただけでした。
「次郎物語」は元佐賀藩士の本田家の3人兄弟の二男として生まれた次郎が「孟母三遷の教え」を実践する母親の意向で学校に住み込みの用務員の家庭に預けられますが、学校の建て替えで実家に戻されると祖母は自分が育てた兄や弟と比較して次郎の品格の欠落を指摘して執拗に差別したため、嫌気が差した次郎は当てつけのように喧嘩や悪戯を繰り返し、祖母や母親とは近親憎悪の関係になりますが、父親と祖父、逃げるように訪ねた母親の実家の正木家からは温かく見守られながら佐賀人としての教えを受けて自我に目覚め、成長していく物語です。野僧には本田家の女性たちの嫌味な人間性が中学や地元で周囲にいる女生徒や小母さんたちと共通していて大いに共感を覚えました。
下村さんは明治17(1884)年に現在の佐賀県神埼市で生まれ、次郎と同じように生まれて間もなく里子に出されて4歳で実家に戻っています。旧制・佐賀中学校の頃から詩歌を雑誌に投稿するようになり、熊本の旧制第5高等学校に進学してからは生徒の交友誌の編集委員を務め、「文才は5高随一」と評されるようになりました。東京帝国大学英文科を卒業して学資援助を受けていた下村家の婿養子になると母校の佐賀中学校の教員から唐津中学校の教頭、鹿島中学校と鹿取中学校の校長を歴任した後、地元の社会教育家の勧めで台湾に渡って台中第1中学校と台北高等学校の校長を務めて帰国して昭和6(1931)年に教職を辞すると昭和7(1932)年から本格的に文筆活動に入るのと同時に昭和8(1933)年からは大日本青年団講習所の所長に就任しています。
昭和11(1836)年から雑誌「青年」に「次郎物語」の連載を始めましたが戦前・戦中・戦後まで断続的に連載は続き、第1部は「教育と母性愛」、第2部は「自己開拓者としての少年次郎」が主題だったと筆者自身が語り、昭和22(1947)年までの第4部では佐賀県出身の軍人が大きく関与した5・15事件や2・26事件による軍国主義の勃興の時代背景を描き、昭和29(1954)年に第5部を脱稿して間もなく脳軟化症(脳血管の閉塞で脳細胞に病的症状が発生する)で病床に伏すことが多くなり、この日の午後11時2分に東京都新宿区の自宅の書斎で死去しました。下村さんは5部の後書きで「戦争末期の次郎を第6部、終戦から数年たってからの次郎を第7部として描きたい」と述べていましたが未完に終わりました。
なお、「次郎物語」は昭和16(1941)年、昭和30(1955)年、昭和35(1960)年、昭和57(1982)年に映画化されていて野僧も一般空曹侯補学生基礎課程に入校中に看護学生の彼女と徳山市内の映画館で観ましたが、母親の死の場面などに多少の改作があったようでした。
- 2022/04/19(火) 15:26:36|
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