屯田高彦は山口県下関市豊北町にある栗野(くりの)郵便局に勤めている。担当する栗野地区は昭和30年4月1日の大合併までは独立した栗野村だったが豊北町に統合され、その豊北町は平成の大合併で下関市に編入されたので面積は広く、海岸沿いの漁村から山奥の平家の落人集落まで点在しているため配達の苦労は都市部の日本郵政の社員たちとは比べ物にならない。おまけに過疎化が著しく集落の大半は空き家になっていて配達時に1人で住んでいる高齢者の生存を確認するのも仕事になっている。そんな屯田は最近超多忙になっていた。
「五島さんは唄の井(うたのい)だったな」山口県は加倍元首相からの依頼を受けた村山知事の陣頭指揮で対馬からの避難民の受け入れを進めた。その中で対馬市長から「避難後も自治会の機能を維持したい」と要望されたので世帯数に応じて山口県内の過疎集落を割り当てた。一方、山口県は電力会社、水道局、NTTにも早急な生活機能の復旧作業を要請し、日本郵便も対馬の住所宛の郵便物を山口県内の避難住宅に転送するようにコンピューターを操作した。そのため屯田は今まで取り残されている住民1人のために走り回っていた配達物の量と相手が数倍増になっていた。ただし、日本郵便には過去にさかのぼって失策もある。昭和の大合併の時、栗野地区の住所から集落を削除して番地だけにしたのだが、広い対象地域を数字だけで特定するのは困難だ。屯田としてはこの機会に改善を要求したいところだが、それを「組織に対する批判」として許さないのが山口の県民性だ。
「どうですか慣れましたか」「こんな立派な家に家賃なしで住めるとは思わなかったよ。おまけに家具、食器付きとはね。でも古着は困るな」屯田は空き家になっていた住宅に転居してきた対馬の島民に声をかけた。山口県内では子供たちが就職先の近傍で家を建てて親を呼ぼうとしても「迷惑がかかる」「ご先祖さんの墓を守らなければならない」「田畑を捨てていけない」などと拒むことが珍しくない。そうして高齢者が1人暮らしを続けると足腰の衰えで古民家での暮らしが辛くなり、死を目前にしてバリアフリーで新築することも多く、この家も新築同然だった。ところが親が死んでも子供が放置するため生活していた状態のままになっていて、台所には食器や鍋釜薬缶(食材や調味料は知り合いが回収する)、箪笥には衣類が残っている。
「対馬宛の郵便物を届けてもらえて有り難いよ。本土に来ている連中が心配して避難して来いって手紙をくれていたんだ。これで会いに行ける」「でも新型コロナがありますからあまり遠出はできませんね」屯田の答えに島民は少し落胆した顔になった。
「ところで買い物はどこへ出れば良いんだね。総合支所の職員が説明に来たけど本人が余所者みたいで地元の人に訊いてくれって逃げるんだ。ところが地元の人は90過ぎの婆さんが1人だけで何を訊いても『昔はあそこの店で売っていた』としか言わないから困ってるんだ。車を持ってこなかったから足がないだろう。倉庫にある自転車を直して出かけるしかないな」「ここから自転車で行けるところにスーパーやコンビニはありませんよ。強いて言えば栗野の駅から電車で長門や下関に出れば大概の物は揃います」「電車かァ・・・対馬にはないから嬉しいな」意外な反応に屯田は地理の勉強をした気分になった。
「そうだ巡回販売のトラックに会ったらここにも寄るように声をかけましょう」「そう言えば婆さんも週に1回トラックで売りに来るって言っていたな。俺たちが来たのがその間になったと言うことだ」島民は納得したようにうなずくと受け取った郵便物を確認し始めたので屯田は次の家に向かってバイクを走らせた。
「私が死んでも見つけてくれるのは屯田さんか繁永さんだと思ってたけど、急ににぎやかになって安心して死ねるよ。ナマンダブ、ナマンダブ・・・」集落に1人で住んでいた婆さんは畑仕事から返ってきたところで広告の郵便物を受け取ると毎度の口調で説明した。この皮肉な言い方も他県人に嫌われる県民性だが、山口県人である屯田は聞き慣れている。
「人が多くなれば田畑を荒らす鹿や猪、猿も少しは遠慮するでしょう」「鹿や猪は若い人が追い回して棒で殴ってくれなきゃあ逃げないよ」郵便物に広告しかないのを確認した婆さんは立腹したような顔になって皮肉を上乗せした。栗野地区でも山間部はサファリパーク状態で屯田がバイクで走っていても鹿の群れが前に立ち塞がり、バイクで近づいても逃げようとせず、警笛くらいではあまり効果がない。そこで数十メートル手前から警笛を押し続けて接近するとようやく道を開けさせることができる。突然藪から飛び出してくる猪や猿の集団も始末が悪いが、隣りの長門市や豊田町に出没している熊はこれで進入してこないはずだ。
「屯田くんかァ、小川内(おがわうち)の転入者たちは少しは落ちついた様子だったかね」屯田が集落の配達を終り、次の集落に向かうと栗野の駐在所の警察官が軽自動車のパトカーでやってきて停車すると声をかけてきた。窓越しの情報交換は地域の安全のためだ。
- 2022/04/20(水) 14:21:21|
- 夜の連続小説9
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