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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月20日・空襲を免れたのに・・・飯田の大火

敗戦2年後の昭和22(1947)年の4月20日に長野県で最も南にあり、実家がある愛知県の東三河とは飯田線でつながっていて意外に人の往来が多い飯田市で(中学校3年の担任で唯一野僧の文才を認めてくれていた国語の教員も飯田市から愛知教育大学に進学した)、市街地の7割の約50万平方メートルが消失する大火が発生しました。
飯田市は第2次世界大戦中にアメリカ軍が策定していた日本の都市空襲の優先順位では180都市中の177位でしたが、長野県内では昭和20(1945)年8月13日に64位の長野市と144位の上田市が空襲された以外は66位の松本市、125位の岡谷市も空襲されていません。そのため担任が子供の頃には京都を模した細かい格子状の区画に長屋を整然と配した城下町の街並みがそのまま残っていたそうですが、その分、木造家屋が密集しているため一度、火災が発生すると類焼して大火になることが多く、江戸の神田佐久間町(地名の偶然の一致)でも大火があった文政年間や前年の昭和21(1946)年にも焼損棟数198戸、焼損面積3万3500平方メートルの火災が発生しています。
この大火は4月20日の午前11時48分に市街地の中心部にあった鉄筋コンクリート製で屋上ドーム付き2階建ての八十二銀行飯田支店の裏手の民家から出火して午前中は風速4メートルと風は弱かったものの晴天続きで乾燥していて、日曜日で戦後初の衆議院選挙の投票日だったため不在にしている家が多く初期消火は行われず、さらに八十二銀行の建物が延焼を二分する形になって両方向に燃え広がり、前年の火災の記憶が生々しい市民が火の手が及んでいない地域でも延焼予防として一斉に放水したことで消火栓の水圧が下がって使用不能になる悪条件が重なって午後から吹き始めた風速15メートルの強風にあおられた火災は市内全域に広がっていきました。ちなみに飯田市内には火災に強いとされる土蔵が数多く存在しましたが、明治以降は住民が必要性を認めなくなって放置したため壁の亀裂や鼠穴などで密封性が損なわれて類焼すると中の家具や古着、掛け軸や屏風などの古道具などが炎上、倒壊して防火壁の役割を果たしませんでした。このため消防も打つ手がなく結局10時間燃え続けるのを傍観しているしかなかったのです。
その結果、焼損面積は48万1985平方メートルに達し、焼損棟数は4010戸、被災人数は17778人に及びましたが、死者・行方不明者は初期消火が機能しなかったくらい不在だったため3名に留まりました。また市街地では唯一類焼を免れた仲ノ町地区には元藩士の3男だった日本画家・菱田春草さんの生家がありましたが、現在は屋敷と庭は取り壊されて見るべき物は何もない記念公園になっています。
翌年から本格的復興事業が始まり、また大火になった時には4分の1の焼損ですむように市街地を縦横に4分割する形で防火帯の役目を果たす幅の広い道路を作り、裏路地を幅2メートルに拡張した避難痛路「裏界線」も巡らせましたが、当時、小学生だった担任は大火前の城下町風情を色濃く残す街並みを憶えているので「復興後の飯田市は戦災から復興した他の都市と同一規格の街になってしまった」=「郷土愛を喪失した」と嘆いていました。それでも現在は4分割防火道路の緑地帯に植えた林檎並木が有名です。
  1. 2022/04/20(水) 14:22:22|
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