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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月24日・復元までに32年間・防府天満宮が炎上した。

昭和27(1952年)の4月24日に菅原道真さんが太宰府の長官に栄転して海路赴任する途中で立ち寄り、高台からの風景を愛でて「魂はこの地に還る」と言ったとの伝承を受けて死の翌年の延喜4(904)年に創建された最古の天満宮として日本三天神を自称している防府天満宮が火災で全焼しました。
神道を本格的に学んでいない一般的な日本人は「天神は天候気象を司る天上の神さま」で「菅原道真さんは後で合祀された」と思っていますがそれは半分の正解に過ぎません。確かに「天神」は天上におわす天候気象を司る神さまであっても外来の天津神ではなく土着の国津神に属し、社(やしろ)や拝礼所を設けて祭事を勤めることはなく豪雨や日照り、暴風や時化の時には空や海に向かって怒りを鎮め、慈悲を施すように願うことが一般的でした。ただし、平安遷都に際しては西端の北野に西北・天門の鎮護、天候気象の農耕神として火雷神が祀られました。
ところが延喜3(903)年に菅原さんが太宰府の長官への栄転であっても中央政界から遠ざけられて遠方の地に赴かされたことを逆恨みしながら没すると京都では疫病が流行し、菅原さんを寵愛しながら讒訴を信じて大宰府赴任の人事を裁可した天皇の皇子が相次いで死亡し、さらに日照りによる干ばつへの祈祷の相談が行われていた清涼殿に落雷して讒訴した公家たちが死亡したため、それまでは人知を超えた気象現象を抽象的な荒ぶる神々として畏怖していた天神が菅原道真と言う実在した人物の祟り神になり、関係者を恐怖のどん底へ突き落としたのです。
こうして菅原氏の祖先である野見宿禰の出身地の奈良県桜井市の與喜天満神社や火雷神の社に菅原さんを合祀した北野天満神社、墓所に創建された太宰府天満宮などが乱立し、防府天満宮も創建時の菅原社から改称され、大宰府天満宮と緊密な関係を持つようになり、後に北野天満社の火雷神を分祀して菅原さん単独の祭事施設になりました。つまり現在の防府天満宮は学問の神さまであって豊作や大漁の御利益は放棄しています。
そんな防府天満宮は意外に地位が低く、周防一宮は同じ防府市にある旧・国幣中社の玉祖(たまのおや)神社で、防府天満宮は県社に過ぎませんでした。
この日の火災で本殿ほかの社殿が焼失すると熱心な佛教徒が多い防府市民の反応は冷ややかで、桂小五郎さん以下の山口藩閥が主導した廃佛毀釋で佛教を捨てさせられた怨みから一向に寄付が集まらず再建を始められませんでした。防府天満宮ではこの理由を「戦災で被害を受けた市内の復興を優先して建設資材の調達を控えた」と説明していますが、防府市の空襲は昭和20(1945)年7月24日の陸軍航空基地(現在の防府北基地)と鐘紡防府工場、7月28日の向島沖の船舶、8月8日の海軍通信学校(現在の防府南基地)へのグラマン戦闘機による機銃掃射と小型ミサイル=ロケット花火の発射だけで市街地の被害はほとんどありませんでした。
結局、本殿だけを再建してほかの社殿と回廊は野僧が一般空曹侯補学生として防府南基地に入隊した翌年の昭和58(1983)年4月の完成で、32年間を要したのです。
森野曹侯生まだ完成していない防府天満宮(昭和57年4月)
  1. 2022/04/24(日) 15:53:16|
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