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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月6日・日本軍と山口県人の愚かさの犠牲者・村上正路大佐の命日

大正6(1917)年の明日5月6日は「捕虜になったのは最前線で敵と交戦したから」と言う経緯と「負傷して意識を失った」と言う事情を理解しない日本軍の狂気とそれを作り出した山口県人の愚かさの犠牲になった村上正路大佐の命日です。
村上大佐は嘉永5(1852)年に毛利藩士の2男として生れ、明治8(1875)年に陸上自衛隊で言えば体育学校と中央音楽隊教育科に相当する陸軍戸山学校に入営して翌年に少尉に任官すると明治10(1877)年には西南戦争に出征して戦傷を負っています。日清戦争には熊本にあった歩兵第13連隊の少佐の大隊長として出征し、続く日露戦争では大佐の旭川・歩兵第28連隊長として乃木愚将の稚拙な指揮で無用に多大な損害を出していた第3軍の補充として旅順攻囲戦に派遣されましたが、第3軍は攻撃目標を旅順要塞から203高地に変更しても相変わらずの白襷隊による正面攻撃を繰り返したため村上大佐は指揮官を務め、11月30日には2600名が40名になりながらも203高地山頂の東北角の占領に成功しています(前回の中村覚少将の時は途中で断念した)。しかし、第3軍が放置したため翌日にはロシア軍に奪い返されて犠牲を供じただけでした。
翌年3月からは奉天会戦に参加しましたが、北陵に夜襲をかけて占領に成功したものの森林内での交戦中に銃撃を受けて負傷し、意識を失っている間にロシア兵に拘束されて捕虜になったのです。
村上大佐は1800人の日本軍の捕虜と共にシベリア鉄道で帝政ロシアの夏の首都・サンクトペテルブルグから南に180キロのメドヴェージ村に設けられた捕虜収容所に送られ、最高位者として首長を務め、所内の統括とロシア軍との交渉に当りましたが、この時のロシア軍はアジアの小国でありながら互角な戦いを繰り広げる日本軍に敬意を払い、第2次世界大戦後のソ連軍によるシベリア抑留とは全く違う処遇を与え、1日の食事は半白パン3斤に角砂糖3個半、野菜入りスープに蕎麦飯、牛肉110グラムと充実していて日本人にはパンが多いため現金で受け取って野菜などを買い足すことも認められ、飲酒も日本の祝日には許されていました。ちなみに日露戦争における日本軍捕虜は77120名で29か所に分散収容されました。
明治38年9月5日にポーツマス講和条約が調印されると日本人捕虜2000名はロシアとドイツの国境のウェルバーレン駅で日本側に引き渡されて海路で明治39(1906)年2月8日に帰国しました。ところがドイツでは皇帝が謁見して労をねぎらい煙草やチョコレートを下賜されたのに対して日本では俘虜審問委員会で降服や脱走、職務放棄などの軍紀違反の有無の取り調べを受け、前述の名誉ある捕虜だったことが認定されて北海道の第7師団司令部付に復帰したのですが、下級士官が意図的に欠礼するなどの冒涜を受け、明治40(1907)年2月27日に予備役編入になって山口県に帰郷しても軍内以上の誹謗中傷を受けたため本籍地を兵庫県に移して異郷の地で没することになりました。
日本軍・日本人は第1次上海事変で同様の経緯で捕虜になった空閑昇少佐を自決に追い込んでいますが「捕虜は前線にいたからなる」経緯を認識するべきです。
  1. 2022/05/05(木) 14:28:56|
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