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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月19日・ベトナム軍の現場指揮官を育成した谷本喜久男少尉の命日

2001年の明日5月19日は陸軍中野学校二俣分校を修了してベトナムへ渡り、第2次世界大戦後に植民地支配の再開を企図したフランス軍に抵抗するベトナム人ゲリラ=ベトナム軍にその教育内容を伝授した谷本喜久男少尉の命日です。
陸軍中野学校は諜報活動=スパイや占領地での宣撫工作などの情報・謀略戦を目的に創設されましたが現在の静岡県浜松市天竜区二俣町に新設された二俣分校はゲリラ戦術や破壊工作を中心にした半年間の短期集中教育でした。中野学校と二俣分校では東條英機陸軍大臣が公布した戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」とは反対に「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥を晒しても生きよ」「できる限り生きて任務を遂行せよ」が精神徳目だったと伝わっています。また出身者の小野田寛郎少尉の回想によると卒業前には二俣から夜間行動で約70キロある現在の航空自衛隊浜松基地を襲撃したそうです。
谷本少尉は大正11(1922)年に鳥取県で生まれ、当時としての高等教育を終えて二俣分校に入営し、昭和19(1944)年に修了すると福岡、台湾経由でベトナムに赴任しました。現地では中野学校出身者が敗戦後も東南アジア各地(谷本少尉はインドネシアの予定だった)に残って活動を継続する目的で組織した「安部隊」に参加しましたが、敗戦によって断念せざるを得なくなり独立混成第34旅団司令部の渉外部員として対外交渉全般を担当することになりました。そんな中、ベトナム中部高原の保養地ダラットに開設した捕虜収容所がベトナム人ゲリラの攻撃を受けて警備兵が連行される事件が発生して指揮官と面談すると熱い祖国愛と激しい闘志に感服して中野学校の活動地域の人々との融和団結と献身的貢献の建学の本旨が蘇り、ベトナム人ゲリラに参加することを決意したのです。こうして昭和21(1946)年にグエン・ソン少将が創立した最初の陸軍士官学校=クアンガイ陸軍中学校の教官になり、フランスとのインドシナ紛争やアメリカとのベトナム戦争で最新鋭の兵器を駆使する両軍を巧妙なゲリラ戦術で翻弄し、散々に苦しめた現場指揮官たちを養成しました(指揮官として参戦した日本軍士官も少なくなかった)。
日本のベトナム戦争当時の反戦団体やマスコミは「ベトナム軍は中国人民解放軍で毛沢東戦術を学んだ」と説明していますが、前述のグエン・ソン少将のような高級幹部は別として現場指揮官たちの大半は谷本少尉や加茂徳治少尉、中原光信少尉ほかの日本の軍人を教官として育成されたのです。おそらく日本軍の離島守備隊が戦陣訓を守った「万歳突撃」=集団自決ではなく硫黄島式のゲリラ戦を展開すれば甚大な損害と長期化でアメリカ国内に厭戦世論が発生し、ナチス・ドイツの降伏後は継戦できなかったかも知れません。
谷本少尉は昭和29(1954)年に帰国すると郷里の鳥取の小学校の校長になり、1996年には加茂少尉、中原少尉と共にベトナム軍から勲章を授与され、式典には教え子の陸軍中将以下百数十名の卒業生が参加し、学校跡地に記念碑が建立されました。
この日、79歳だった谷本少尉=校長はで鳥取県気高郡青谷町のほぼ直線の国道6号線を走行中に対向車線にはみ出してトラックと正面衝突しました。本人は熱心な日蓮宗の信徒でしたが喪主の娘夫婦が創価学会員だったため僧侶なしの学会葬になったそうです。
  1. 2022/05/18(水) 14:45:06|
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