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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

自衛隊には「投降=降服」「捕虜」の前例を作らなければならない。

マウリポリでウクライナ軍が最後まで立て篭もっていた製鉄所に収容されていた負傷兵たちが投降して親ロシア派住民の支配地域に搬送されて捕虜になったようです。このニュースと新聞記事を見て野僧は現役時代「是非、降伏して捕虜になりたい」と真剣に考えていたことを思い出しました。
野僧は某大学の法学科を中退して航空自衛隊に入隊したため空曹時代から「戦争法=日本では戦時国際法」に興味を持って研究を始め、防府南基地に転属すると課程教育がない時期は暇が有り余るので研究が深化し、幹部候補生学校や幹部学校に入校して防衛関係法の担当教官に質問すると「質問が高度過ぎて回答に自信が持てない」と正直に告白しながら専門書を推薦して独学を勧められました。
そんな野僧なので第1教育群本部の運用幕僚時代には課程教育を継続することが決まっていた秋の総合演習で「防府南基地が捕虜収容所になった」と言う設定で課程学生を捕虜にして作業を監督し、所属する空士に脱走させて捜索・逮捕・取り調べを実施する参加命令を起案したのですが、課程教育用教程に記載されている概要以外に戦争法の知識を有する幹部が全くおらず、野僧が航空総隊司令部に出向したため実現しませんでした。
その反動で「是非、降伏して捕虜になりたい」と考えるようになった理由は「戦争法」と並ぶ「戦史」の研究で捕虜に対する日本軍と日本人の狂気に等しい態度を知ったことでした。日本陸軍では東條英機陸軍大臣が昭和16(1941)年1月8日に「戦陣訓」で「生きて虜囚の辱めを受けず」と布告するまでもなく日露戦争で戦闘中に負傷して意識を失い、ロシア軍に救助されて捕虜になった村上正路大佐は生還後、陸軍では「投降による軍紀違反はなかった」と判定されても郷里の山口県では「地元の恥」と激しい非難を受け、失意のうちに移住した遠方の他県で亡くなり、第1次上海作戦で同様に経緯で国民党軍の捕虜になった空閑昇少佐は生還すると留守宅に投石され、士官学校の同期たちから「自決せよ」と迫られ、戦死者の慰霊のため現場付近を訪れた際に拳銃で自決しましたが、部下の士官たちからは「臆病者は腹も切れんのか」と揶揄されました。
しかし、人手不足の自衛隊は戦闘力を使い果たした後は無駄に死ぬべきではなく可能であれば撤退・逃亡して再起を期し、包囲されて退路を開く見込みがなければ投降して部下の生命を守るのが指揮官の責務です(偽の情報で敵を混乱させる高等戦術もある)。
それでも戦後の日本人は新たに軍事常識を学ぶことはなく日本軍の悪しき前例を常識にしているため自衛隊に「生きて虜囚の辱めを受けず」の誤った倫理観をあてはめる可能性は高く、戦争法が定める投降方法や捕虜の処遇、違法行為への対処方法を熟知している野僧が規範的投降を示し、新たな前例にしたいと考えました。ただし、相手は正規軍や軍隊化された武装組織でなければ捕虜ではなく人質になり、捕虜にした国家に順法義務を問うことができず、帰還も捕虜交換ではなく身代金になってしまいます。
帰還後は当然、指揮官である野僧は部内外からの激烈な批判、侮蔑、嘲笑、誹謗に晒されますが、その点は入隊以来の常軌を逸した「曹候苛め」で慣れていました。
  1. 2022/05/20(金) 15:13:31|
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