正中3(1326)年の明日5月22日(太陰暦)に鎌倉幕府第14代執権の北条高時さんが地方豪族と有力御家人の相次ぐ謀反に遭い、上野国地頭の新田義貞さんが鎌倉に攻め込んだため菩提寺の長勝寺で自刃して鎌倉幕府は滅びました。満年齢で29歳でした。
高時さんは嘉元元(1304)年に第9代執権・北条貞時さんの3男として生れました。この頃の北条氏は安達氏との婚姻が続いていて近親結婚の悪影響なのか2人の兄は夭折し、高時さんも当時の歴史書で「頗る亡気の体で将軍家の執権も叶い難かりけり」「正体無き」と評されるほど病弱で、知恵遅れだったようです。
延喜2(1309)年に7歳で元服すると執権の北条氏は烏帽子親の皇族の宮将軍から1字受けるのが慣習だったにも関わらず当時の将軍・守邦親王には該当しない高時の諱(いみな)を名乗りました。父親の貞時さんも北条氏と伊勢平氏の家祖で従兄弟の平将門さんを討った平貞盛さんに由来すると言われているので桓武天皇の皇子で平氏の始祖の平高望(たかもち)親王からから採った可能性もあります。どちらにしてもこの頃になると北条氏が源氏の宿敵・平氏の嫡流であることを隠す必要はなくなっていたようです
病弱で知恵遅れだったとされる高時さんが7歳で元服して2年後に父の貞時さんが亡くなると母の実家の安達氏と幕府の要職に就いていた長崎氏を後見にして北条一族で執権を持ち回りにしながら貞時さんが執権になった14歳まで待つことになりました。しかし、貞時さんは父親の時宗さんが元寇の国難に全身全霊を傾注して精根尽き果てて32歳で早逝した時には14歳だったので真摯に政務に取り組む姿勢は学び取っていましたが、高時さんは病弱だったため御所に近づかず闘犬と田楽を好んで遊芸に耽っていたと言われています。このため正和5(1316)年に14歳で執権になった時には幕府の実権は後見だった長崎氏が握って機能不全に陥っており、その一方で守護地頭の取り締まりの弛緩によって各地で盗賊や悪党が跋扈し、東北では原住部族の乱が続発した上、夜空に彗星が現れて京都の皇族や公家たちの間では「彗星=妖霊星は亡国の兆し=鎌倉幕府の滅亡は近い」と評判になって後醍醐天皇が討幕を画策する非常事態が発生しました。
しかし、高時さんは政務を側近に丸投げして趣味の闘犬と田楽にうつつを抜かし、武力はあっても政治力を喪失した幕府は乱を場当たり的に鎮圧するだけで有効な対策は取れず、執念深く決起を繰り返す後醍醐天皇に呼応する地方豪族が相次ぎ、この年の5月7日に笠木山で決起した後醍醐天皇の鎮圧に派遣された御家人筆頭の下野国地頭の足利高氏(この時は高時さんから1字受けた諱だったが、後に後醍醐天皇の尊治の1字を下賜されて改名した)さんが六波羅探題を襲撃して京都所司代を討つと上野国地頭の新田さんが関東で蜂起して5月18日には鎌倉に侵攻し、4日間の攻防の果てにこの日を迎えました。
後醍醐天皇の即位から鎌倉・足利幕府の滅亡と成立、南北朝、2代将軍・足利義詮さんの死去までを描いた「大平記」には初代執権の北条時政さんが江の島弁財天に参詣した時、「7代までは加護するから安泰だ」とのお告げを受けましたが高時さんは嫡流としては8代目なので加護を失っていたとされています。
- 2022/05/21(土) 13:17:34|
- 日記(暦)
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