「海中で圧壊したようだな」「燃料も大量に浮遊しています」前進微速で現場海域に入った護衛艦・いわきの甲板では隊員たちが海面に浮遊している潜水艦の破片を確認していた。海面は大量のディーゼル燃料が覆い、太陽の光を反射して異様な光沢を放っている。軽いプラスチック製の部品と幾つかの遺骸が油に塗れて漂っていた。
「遺骸と浮遊物を収容します」「ようそろ。停船、ランチ(内火艇=動力付き小型艇)を下ろせ」副長を兼ねている甲板長が無線で艦橋に連絡すると航海長が返事をした。無線は艦長と航海長の会話を拾わなかったようだ。これでは船団護衛の隊形を乱すことになるが軍事秘密の固まりである潜水艦の部品の収集も重要な任務だ。プラスチックの材質を科学的に分析すれば中国の造艦技術の現状も確認できる。遺骸も血液検査などで潜水艦内での生活環境が判明する。
「ここまで悲惨な状況になるのはやはり水圧の関係ですかね」「艦内に海水が浸入すれば水深の圧力がかかる。そこから海中に放り出されて浮かび上がる間に水圧は大きく変わる」エンジンからの引火に細心の注意を払いながら周辺の浮遊物を回収していくと作業服を着た水兵の遺骸が仰向けに浮かんでいた。口を開けて舌を突き出しているのは肺の中の空気が抜けた結果だろう。球状の両目が飛び出して筋が延びているのは昔懐かしい玩具のアメリカン・クラッカーのようだが知っている世代の隊員はいない。
「こいつは手足が千切れているが・・・見当たらないな」「こっちは頭がない」長い竿の先の網で目立つ順に遺骸を引き寄せてゴム手袋をはめた両手で甲板に上げていくと次第に直視できないような悲惨さを呈してきた。胴体は肺の中の空気の浮力で浮かび上げるが、頭部や腕と脚は骨と大脳や筋肉の重量で沈んでしまう。
「俺は東北の震災で水死体を幾つも収容したが、あれに比べればまだ綺麗なものだ」「震災の水死体は津波で沖に流されて時間が経過していたから水を吸って腐敗が始まっていました」「鮫にも喰われていました」作業を指揮しているベテランの海曹が回想すると拾い上げた遺骸を並べている若手たちも同調した。東北地区太平洋沖地震から10年が経過したが、その経験は外国軍が戦争を経験するのとは別次元の教訓を与えている。少なくとも悲惨な現場にも動じない覚悟を組織内で共有している。
「このくらいだな。あまり船団から遅れるのは拙い。潜水艦は1隻とは限らん」1時間ほどで艦長は回収作業を終了させた。回収した部品と遺骸は第7艦隊に引き渡すことになっている。第7艦隊はヘリコプターでハワイの太平洋軍司令部に運び専門組織で徹底的な調査を行う。海上自衛隊は検屍は実施しなかったがゴム手袋越しでも作業服の中に肺や胃腸が露出していることは判った。海中で圧迫された内臓内の空気が海面に浮かび上がって膨張し、胸と腹の皮膚を破って露出したようだ。作業服の前を開けばそれこそ悲惨な姿を見ることになった。
「潜水艦はマイケル・ウルフの追跡を受けていることまでを艦隊司令部に報告しただけでASROKの発射は通報していないようです」「パニックになっていたのかな」日米合同艦隊の第7艦隊側旗艦に回収した部品と遺骸を引き渡すと護衛艦・いわきの艦橋では中国海軍の通信を傍受していた第7艦隊から提供された意外な事実が話題になった。現代戦、特に海戦と空中戦では綿密な情報交換が常識であり、敵艦の追跡を受ければ絶え間なく状況を報告するはずだ。そこでミサイルの発射を察知すれば撃沈されるまで情報を提供し続けなければならない。
「やはり艦乗りとしての練度が低いのでしょう。ミサイルを射たれれば回避行動だけを考えて報告などは忘れてしまったんですよ」「大陸の民族には板子一枚下地獄って覚悟は身につかないんだな」「潜水艦は地獄の中で生活していますからね」艦橋では戦死した中国海軍の潜水艦の乗員の冥福を祈って黙祷したが、戦況分析に続く評価では死者を鞭打つような辛辣な言葉が続いた。日本では潜水艦が導入された初期の明治43年4月10日に6号潜水艇が山口県新湊沖で着底して浮上不能になった事故で艇長の佐久間勉大尉以下14名の乗員は持ち場で死んでいて酸素欠乏の苦痛の中でも職務を放棄しなかったことが世界の海軍を感動させ、イギリス海軍の潜水艦の乗員教育用の教程には佐久間大尉が意識を失うまで状況を克明に記録したメモと合わせて掲載されていたと言う。一方、中国海軍は日清戦争に先立った威圧のために来日した戦艦・定遠と鎮遠は司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」でも紹介されている東郷平八郎元帥がマストに水兵の洗濯物が干してあるのを見て「清国海軍恐れるに足らず」と喝破した逸話以外にも上陸した佐世保で乗員が不祥事を頻発させて規律が低劣であることを喧伝している。
「後続の船団にも中国海軍の潜水艦が出没していることは通知しなければいけませんね」「対処手順は今回の通りで良いと付け加えろ」艦長の指示に甲板長は副長としてうなずいた。それにしてもここまで交戦状態が繰り返されても防衛出動はまだ発令されないのだろうか。
- 2022/05/28(土) 15:25:54|
- 夜の連続小説9
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