山口県の栗野郵便局の屯田局員は今日の仕事にはかなり緊張していた。政府は防衛上の脅威を真摯に受け止め、率先して全島民の避難に踏み切った対馬の島民に生活支援金を交付している。今日は金融機関に振り込まれた生活支援金を払い戻す書類を簡易書留で配達するのだ。現金書留ではないとは言え栗野地区の過疎集落に移住してきている数十軒分の支援金の総額は軽く百万円を超え、万が一紛失すれば当分給料はない。屯田局員はこの地域住民から絶大な信頼を寄せられていて以前は郵便貯金の通帳と印鑑を預けられて現金の払い戻しを頼まれたこともあったが、これは下関市の本局に禁じられて現在は電話連絡で貯金担当者が出向いている。結局、市街地にある本局にとってはニュースで報じられる都市部の郵便局員による現金書留の横領事件の再発防止を東京の本社に指示されれば現場の局員の勤務態度や住民の利便性に関係なく徹底するのが郵政省以来の企業体質なのだ。
「今月も生活支援金がもらえるのか」屯田局員が最初の集落の島民の家でバイクを止めて玄関で声をかけると住居の隣の倉庫から出てきた小父さんは簡易書留を受け取って大声で独り言を口にした。屯田局員としては受領印をもらわなければならないのだが、そこまで気が回らないらしい。この旧郡部では平成の大合併で下関市に吸収されたため独立自尊の気風が崩壊し、隣接する町や市との境界線がなくなったことで過疎化が急激に進み、取り残された高齢者が細々と農地を維持していたが、そこに多くの島民が移住してきたことで一気に活性化している。運よく農業機械の貸出しを行っている会社があり耕作を本格的に再開できたのだ。
「移住してきたばかりの頃はこのわずかな手当てで何とか生活していたが、3カ月経ったから種で播いた野菜が収穫できるようになって多少は収入ができた。これは待ってくれているレンタ・トラクターの代金にしよう」屯田局員に促されて印鑑を持ってきた島民は朱肉を忘れて取りに戻り、ようやく受け取れた簡易書留を有り難そうに両手で持ちながら使い途を説明した。その話を聞いて屯田局員も地域が元気になっていることを感じて自分が配達しているのが栄養剤のような気がしてきた。これで青々とした水田が黄金色に染まり、稲刈りを迎えれば地域の再生も完成し、生活も安定する。その一方で島民にとってはやはり対馬に戻り、先祖代々で受け継いできた自分の農地を耕作することが悲願であり、新聞とニュースで報じられる対馬の現状には無念の歯噛みをしていることも承知している。
対馬には日本人女性と結婚して帰化した韓国人男性だけでなく日本人が経営する旅館や店舗、中小企業を買収し、移住してきた韓国人の家族が残っている。対馬市は避難するに当たり、日本政府の意向を受けて日本人女性の夫になっている韓国人男性も対象外にしたが、このことを恨んで日韓の緊張が激化するまでは極めて友好的だった態度を豹変させた。実際、自分の漁船で顔見知りの島民に頼まれた家財道具を取りに戻った漁民たちを殺害したことを「対馬防衛戦闘」「侵略者撃滅」と称してインターネットで喧伝した。それだけでなく日本人の家屋を占有して乗用車を乗り回し、島内の資産と呼べる品物は根こそぎ奪い尽し、使い切っていることも対馬領有の証として誇示していて、この事態に海上保安庁は周辺海域を封鎖しているが、韓国政府は対馬の領有権の回復を国際社会に喧伝しているため全面支援を続けている。航空自衛隊が対領空侵犯措置の警察権しか行使できないことを利用して「在留韓国人への生活物資の運搬」を目的とする飛行計画を提出した非武装の空軍の輸送機と陸軍のヘリコプターで生活物資を空輸しているだけでなく秘かに軍人と武器弾薬を運び込んで守備隊を配備したようだ。結局、日本政府が韓国との国交を断絶して防衛出動を発令しなければ治安出動中の自衛隊でも単なる不法入国者として捜査・逮捕することしかできない。
「次は小川内に唄の井だな。あそこは現金書留にして上げないと自動車を持たない島民さんには大変だよ」屯田局員は栗野川の橋に差し掛かったところで腕時計を見ながら呟いた。今日は郵便物が多いため配達予定時間を大きく過ぎている。ここから先は過疎が進んでいた分、移住者が多く人家が点在しながら軒数も多いのだ。
「うん・・・人影だったな。こんな森の中で何だろう」小川内でも橋を渡って最初の数軒の人家から森の中の道を走って奥の人家に向かってバイクを走らせていた屯田局員は木立の中に身を隠すように姿勢を低くしている複数の人影に気がついた。地元の住民が山菜や茸を取りに来れば賑やかに騒ぎながら収穫を競い合っているはずだ。自分のバイクの音を聞いて身を隠すのは明らかに怪しい。屯田局員は速度を落としながらバックミラーを注視した。すると1つの人影が路上に出てきて両手で何かを突き出したのが見えた。
「発砲だ」屯田局員の頭の中では栗野地区に住む元自衛官の坊主から聞いた軍事知識が直感となって警報を鳴らした。次の瞬間、屯田局員はバイクを蛇行させながら増速した。
- 2022/05/30(月) 15:08:10|
- 夜の連続小説9
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