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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月31日・フランスの革命裁判所が廃止された。

1795年の明日5月31日に1789年7月14日のフランス革命によって国王を頂点とする国家体制が崩壊した後の権力争いと粛清の舞台として数多くの醜悪な惨劇を上演した革命裁判所が廃止されました。
革命裁判所は革命の中、マリー・アントワネット王妃の実家であるオーストリア帝国に逃亡を図ったルイ16世国王と家族を反革命の大罪人として軟禁していたデュイルリー宮殿(ルーブル美術館の西隣)からパリの市街地の中心部にあった修道院のタンプル塔に移送・幽閉したことで革命政権内の主導権を握った蜂起市民と兵士たちのパリ・コミューンが1792年8月10日に勝手に開廷した特別重罪裁判所を前身としますが、国王一家に続き共産党中国の文化大革命式に反革命と断定された約3000人が逮捕・監禁された一方でプロイセン軍が国境のロンウェイ要塞を占領したことで「監禁されている反革命勢力が手引きして革命政権を打倒し、釈放後に報復行為に走る」との噂が流れ、恐怖に駆られて収監者を大量虐殺した9月事件(1792年9月2日から始まった)を起こしたため11月2日に廃止されました。ところが市民革命の波及を阻止するべくヨーロッパ諸国がフランスを包囲した反フランス革命戦争が始まると革命軍内で貴族士官同士の相互不信によって裏切りや陰謀の疑惑が飛び交い、再び法令ではなく革命のみを正義とする特別裁判が必要になって1793年3月10日に「あらゆる反革命行動、自由・平等・統一の侵害」の陰謀と国家犯罪のみを告訴事由として設立されました。
そんな革命裁判所も当初は裁判官や検事、陪審員を法律に精通している上流階層が独占していたため蜂起市民が感情で告発した被告人の大半を無罪にして釈放していました。するとこれに反発した革命原理主義者たちが再び主導権を握ると同年9月5日に人員が刷新され、特にマーシャル・ジョセフ・アルマン・ヘルマンが首席判事に就任してからはオーストリア帝国の報復を恐れて放置していたマリー・アントワネット王妃に死刑判決を下して執行し、それ以前は49名だった死刑判決が9月から同年末までに209名、翌1794年1月から5月までに942名に急増しました。さらに1794年6月10日からは裁判の簡素化・迅速化のために弁護士が廃止され、控訴は認められず、しかも平等原理の大義名分で有罪には一律に死刑しかなくなったので刑場がフル稼働しても追いつかず、執行待ちの死刑囚と公判待ちの被告が監獄に収監し切れないほど大量に発生しました。
この恐怖裁判は革命勢力と旧領主の抗争が続いていた地方にも広がり、革命原理主義政権を私物化していたマクシミリアン・ロベスピエールさんが派遣した地方議員が仇敵の残党を反革命の罪で一掃する手段として犠牲者を大量生産していったのです。
そんな革命裁判所は1794年7月27日に発生したクーデターによってロベスピエールさん一派が失脚して処刑されると8月10日に再び人員が刷新され、本来の機能に復帰するはずでしたが、権力者が政敵を一掃する手段に利用することの繰り返しになり、最終的にはフランス革命の終焉により革命政権の自発的廃止と言う形で廃止されました。
所詮、革命は暴動・反乱であってロシア革命、戊辰戦争、共産党中国も大差ありません。
  1. 2022/05/30(月) 15:09:40|
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