バーン。「ヒエーッ」屯田局員が恐れていた通り、熱い空気の固まりが追い抜いていくのと同時に背後で銃声が響いて小さく悲鳴を上げた。弾丸は音速よりも早く、空気の固まりを引き摺ってくる現象も元自衛官の坊主から聞いている、だから本人も意外なほど冷静だった。
バーン、バーン、バーン。銃声は3発続いたが距離が離れた分、空気の固まりが追い抜くのと銃声の時間差が広がっている。屯田局員はバックミラーで確認すると地味な軽装で黒い野球帽をかぶった3人の男が山道に立ってこちらを見ているのが判った。
「ここまで来れば当たっても致命傷にはならないな。坊さんのおかげだ」屯田局員は森を抜けて集落の入り口に差し掛かったところで直進に戻り、速度を緩めた。元自衛官の坊主は日韓の軍事衝突が始まってからは配達のついでの雑談で「銃撃を受けている時の回避行動は不規則に蛇行しないと振れ幅を予測して照準される」「拳銃弾は至近距離でも週刊漫画雑誌を射ち抜けない」などの軍事知識を教育してきた。屯田局員がその理由を訊ねると「ここは韓国軍が潜入できる土地だ」と答えた。以来、屯田局員は坊主の軍事教育を真剣に聞いてきた。
「そうかここはアンテナが建ってないんだった」最初の人家の玄関先にバイクを止めた屯田局員は携帯電話で警察に通報しようとしたが、長年にわたり過疎の限界集落で高齢者しか住んでいなかったため携帯電話のアンテナが建っていないことに気がついた。携帯電話会社は現在も同時多発システム・ダウンの責任の所在が確定しないため損害賠償を請求されるか否かも不明で、新規事業を控えている。だから避難民が移住した地域へのアンテナの増設も今後の見通しが立たない以上、手を着けられないでいるのだ。
「すみません、電話を貸してもらえますか」屯田局員はバイクの音を聞いて郵便物を取りに出てきた住人に声をかけた。警察への通報が遅れれば男たちが逃走し、放置すれば帰路に襲撃される危険性もある。今回は運よく無事に回避したが向こうも失敗は繰り返さないはずだ。
「どうぞ。郵便じゃあ間に合わないような急用なの」高齢の住人は玄関に招き入れると下駄箱に置いてある電話の子機を手渡した。この憎まれ口は山口県人が共有する悪癖のようなものだが、数年前に夫を亡くして以来、一人住まいになっている老女には軽いストレス発散だ。
「栗野駐在所よりも110番だな」屯田局員は住人が好奇心満々で聞き耳を立てている横でプッシュのボタンを押した。すると住人は「110番なの」と怯えたように呟いた。
「はい、山口県警110番です。どうしましたか」初めてかけた110番は着信音が1度鳴り終わる前に山口県警の緊急指令所につながった。ここから先は向こうが誘導してくれる。
「私は下関市の栗野郵便局の屯田と言います」「はい、栗野郵便局の屯田さんですね」「今、配達中に森の中で拳銃で射たれました」「はい、お怪我は」屯田局員の説明に住人は足1つ分後退さりしたが、ここは警察官の質問に答えなければならない。
「大丈夫です」「現場は栗野郵便局の担当地域でもどこになりますか」「小川内の奥の集落に向かう森の中の道です」「小川内と言えば栗野川の橋を渡った集落ですね。ここの森と言うと・・・」警察官はパソコンで地図を検索して場所を特定しようとしているようだが、普通の地図では森は表示されていない。そこで屯田局員が機転を利かせた。
「武下正夫さんの家から先富一枝さんの家へ向かう道です」「なるほど、その中央付近ですか」「はい、森の中に隠れている人影に気がついて不審に思って通り過ぎたのですが、バックミラーで見ていると道路に飛び出してきて拳銃を構えたので蛇行運転しながら逃げました」「何発射たれたか判りますか」「全部で4発だと思います」電話を受けている警察官も屯田局員の冷静な回答に感心したような口調になった。
「今日は不審者に狙われるような配達物があるんですか」「こちらへ避難してきた対馬の島民への生活支援金の払い戻し用紙を配達しています」「新聞やテレビで報道していますね」警察官は犯人の狙いがニュースで報道している生活支援金だと推理した。
「生活支援金が届きます」「これで少し手助けになれば幸いです」と言うニュースの説明では現金書留で送ってくると誤解しても仕方なく、それを狙った犯行の標的になったらしい。
「途中で不審な車は見ませんでいたか」「そう言えば見たことがないワゴン車が森の入口に停まっていました。下関ナンバーだったと思います」ここで警察官は少し間をおいた。おそらく上司に報告し、対応の指示を受けたのだろう。
「屯田さんにお願いします。直ちにヘリコプターで機動隊員を派遣しますが、それまでその地域の住民を安全な場所に避難させて下さい。屯田さんも危険ですから森に近づかないように」仮に先ほどの男たちが後を追ってくればそろそろ姿を現すはずだ。屯田局員は玄関の隅で凍りついたように立ちすくんでいる住人に集落の集会場に行くように促してバイクにまたがった。
- 2022/05/31(火) 14:26:56|
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