今回の150句と第151句は112回で紹介したスタニパータ第149句の続きなので一緒に再確認すれば理解は容易でしょう。
スタニパータ第149句「あたかも母が己(おのれ)が独り子を命を賭けて守るように一切の生きとし生ける者どもに対しても無量の意(こころ)を起こすべし」
同第150句「また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。上に下にまた横に障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし」
同第151句「立ちつつも坐しつつも臥しつつも眠らないでいる限りはこの心遣いをしっかり保て、この世ではこの状態を崇高な境地と呼ぶ」
本来は一つの説法だったようですが、あえて分けたのは漢詩や日本の短歌、俳句のように文の長さに定型があるのかも知れません。内容としては第149句で「慈しみ」の意(こころ)の深さを説いていたのに対して今回の第150句では広さ、第151句では時を示しています。
東アジアの佛教では第150句のような世界観を表現するのに「広大無辺」の四字熟語を当てますが、これは佛教を経典だけで受容したため釋尊を含む如来や菩薩を超自然的な力を持つ偉大な存在にしてしまい、この世の果てまで目が届き、衆生の心の声を聴き届け、願いは必ず成就してくれることにしています。一方、南方佛教では釋尊は実在の人間であり、幼い頃から人一倍感受性が強く、成長して妻子を持っても王位継承者としての日常生活に迷い悩み、それから逃れようと悶え苦しみ、それに耐えきれず地位と家族を捨てて出家し、懸命な求道の末に三十歳で悟りに至られたのですからこの句の言葉も現実として見なければなりません。そのため南方佛教が篤く信仰されているスリランカやタイなどでは実際に釋尊が来られて教えを解かれたと言う伝承が残っていて、それを記念する寺院が建立されていて現在も聖地として多くの信者が参拜しています。それに対して東アジアでは釈尊だけでなく阿弥陀如来や大日如来、観世音菩薩などの出現は超常現象の来迎、降臨になりますが、体験者の話を聞くとその姿は何故か動いている佛像やアニメのような佛画だったようです。実は野僧も危篤状態に陥った時、足元に阿弥陀如来が立たれたのですが、それは生身の人間で肌も金色ではなく色白な身体の内側から眩い光を放っているようでした。また野僧は不動明王にも会いましたが、こちらは筋骨たくましく巻き毛のアフリカ系の男性で燃え盛る炎の前で絵画に描かれているような憤怒の形相ではなく、大きな目で静かにこちらを見詰めていました。
第151句については釋尊の時代の僧院では出家者が熟睡することを戒め、あえて寝心地が悪い場所に横たわって仮眠したようです。日本でそれを厳格に継承しているのが曹洞宗で、雲衲は掛け布団を二つ折りにして脚と胸の位置を手巾(法衣用の腰紐)で縛って寝袋状にして、その中に右脇を下にして横たわり、枕は用いないので右腕は曲げて頭を支え、左手は腿の上に置いて絶対に股間に触れてはならないと言う戒律を守って眠ります。仰向けも禁止です。とは言え作務の疲れで熟睡してしまった後は判りません。
- 2022/06/01(水) 16:40:18|
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