1970年代に中東を拠点にして世界各地で凶悪なテロを繰り返して多くの人命を奪い、日本の国家としての威信を失墜させた日本赤軍の頭目・重信房子(敬称不要)が懲役20年の刑期を終えて癌で入院していた医療刑務所から出所しました。76歳になっています。
このニュースを新聞やテレビの報道番組は「改心」「転向」を強調しながらも内心では憧れの女性戦士の復活を熱狂的に「歓迎」しているようです。やはり1970年代のマスコミは学生運動の活動家を多数採用していたので残滓がまだ力を持っているのでしょう。
重信房子は敗戦の1ヶ月後の昭和20(1945)年9月に東京都世田谷区で生まれましたが、鹿児島県出身の父親は日蓮宗の殺生坊主・井上日召が指揮した「血盟団」のテロリスト養成所だった金鶏学院の門下生で、幼い重信房子は多大な影響を受けたようです。
東京第1商業高校を卒業すると小学校の教員を志望し、大手醤油会社で勤務しながら明治大学文学部史学地理学科の夜間部に進学して雄弁部と文学研究会に入りましたが、この文学研究会が学内の学生運動の主導的組織で、2年になって学費値上げ反対する明大闘争に参加したことで注目され、全学連内で立場を失った共産主義者同盟の再建への協力を要請されると学内の学生運動の主要幹部として活動するようになりました。この頃の学生運動の活動家によると「女性がセクト内で頭角を現すには肉体を与えて虜にするのが常套手段で、重信房子は美人だったから多くの男が籠絡されたのだろう」とことでした。
しかし、当時は昭和45(1970)年の日米安保条約の自動更新を前に実兄の岸信介首相の政治家生命を奪った60年安保の再現を危惧する佐藤栄作首相の厳命を受けた警察によって主要幹部が次々に逮捕されたことで地位が向上し、分裂した共産主義者同盟の中で再結成した赤軍派の創立メンバーの1人になりました。この組織壊滅の危機に赤軍派内では昭和45(1970)年3月に田宮高麿一派がよど号ハイジャック事件で北朝鮮に亡命したのに倣い、海外を活動拠点にして国際革命を展開する「国際根拠地論」が支持を集めるようになり、重信はパレスチナを拠点に選び、昭和47(1972)年2月26日に渡航するとパレスチナ解放人民戦線の義勇軍として活動を開始しました。
それからは1972年5月30日のテルアビブ空港乱射事件(24名死亡=100名以上が死傷)、1973年7月のドバイ日航機ハイジャック事件、1974年1月からのシンガポール石油精製施設襲撃事件、同年2月の在クウェート日本大使館占拠事件、同年9月のオランダ=スフラーフェン・ハーグのフランス大使館占拠事件、1975年8月のマレーシア=クアランプールのアメリカとスウェーデン大使館占拠事件、1977年9月からのダッカ日航機ハイジャック事件、1986年5月14日のインドネシア=ジャカルタのアメリカ大使館へのロケット弾発射事件ほかの国際テロを繰り返しましたが、日本に潜伏していた2000年に逮捕された裁判では福島瑞穂弁護士の日本赤軍が軍事組織であること否定し、テロを指揮した罪を回避する法廷戦術が功を奏して懲役20年の有期刑になり、出所することになりました。それでも出所したその足で支援者=活動家の集会に出席していますから罪の意識は全く持っていないことは明らかです。
- 2022/06/02(木) 14:29:48|
- 時事阿呆談
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