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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月4日・ドイツ皇帝・ウィルヘルム2世が崩御した。

ヨーロッパでは第2次世界大戦が勃発していた1941年の明日6月4日にオランダに亡命していたドイツ皇帝=プロイセン国王のフリードリヒ・ウィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン=ウィリヘルム2世が崩御しました。82歳でした。
ウィリヘルム2世は1859年にベルリンでプロイセン皇子とイギリスのヴィクトリア王女(=ヴィクトリア女王の第1子)の長男として生れました。1888年に祖父・ヴィルヘルム1世に続き父・フレードリヒ3世が在位99日間で崩御したため6月15日に29歳で即位しました。即位後は祖父王の治世を28年間支えていたオットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン首相を解任して皇太子時代から国民の絶大な支持を受けていた自由主義者の父王に倣い労働者保護などの社会政策に力を入れ、社会主義者鎮圧法も期限切れで廃止しましたが、イギリス、フランス、オランダがアジアとアフリカの植民地を奪い合っているにも関わらず海軍力が弱小なドイツは参加できず、富国強兵=軍国主義に方向転換しました。しかし、工業王国ドイツでも艦艇の建造は経験不足でイギリスには太刀打ちできず、結局はソロモンやカロリン、パラオ、マリアナ、マーシャル、ナウルなどの太平洋の離島を獲得しただけでした。
そんな中でウィルヘルム2世は同じゲルマン民族のオーストリア・ハンガリー帝国との一体化を進め、オーストリア帝国が神聖ローマ帝国の系譜であることからドイツ、オーストリア、イタリアの3国同盟を締結して東ヨーロッパの支配を進め、イギリス、フランス、帝政ロシアの3国協商と対立しました。するとオスマン・トルコの衰退で東ヨーロッパのスラブ民族主義が勃興してユーゴスラビアのサラエボを訪問していたオーストリア帝国の皇太子夫妻がスラブ民族主義者の青年に暗殺されたことで21世紀の旧ユーゴスラビア内戦と同様の図式の抗争が始まり、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告すると帝政ロシアが介入して第1次世界大戦に発展しました。
ヨーロッパ史上初の非戦闘員も巻き込んだ総力戦となった第1次世界大戦では相互に国力を消耗し、特に帝政ロシアとフランスの東西2正面の戦闘を続けたドイツは強い軍と優れた兵器、卓越した戦術によって軍事的には優勢を維持しましたが物資不足が深刻で、マルクス主義の発祥の地だけに労働者階層の不満がロシア革命に呼応した暴動に激化して戦争の終結とウィリヘルム2世の退位を要求するドイツ革命になったのです。
ウィルヘルム2世は戦争の指揮に専念していたため暴動の激化を十分に認識せず、側近に亡命を勧められて初めて切迫した事態を理解したのでした。そして1918年11月10日に特別列車に財産を満載してオランダへ亡命し、オランダ王家から中部のドーン城を買い取って23年間の悠々自適の長い余生を過ごしました。
崩御した時、オランダは1940年5月10日から15日の短期戦でナチス・ドイツに降伏してオランダ王家もイギリスへ亡命していたためアドルフ・ヒトラー総統も占領軍による国家元首に準ずる規模と格式の葬儀を行いましたが、遺骸は遺言により晩年を暮らしたドーン城内の庭園に埋葬されています。
  1. 2022/06/03(金) 14:56:42|
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