昭和47(1972)年の明日6月5日は極東国際軍事裁判=東京裁判に検察側証人として出廷して死刑判決を受けた陸軍のA級戦犯5人(松井石根大将は公判の途中でB級戦犯に変更された)の有罪を確定させる証言を行ったとされる田中隆吉少将の命日です。
田中少将は日清戦争開戦前年の明治26(1893)年に現在の島根県安来市で商家の息子として生まれ、日露戦争終結2年後の明治40(1907)年に広島陸軍幼年学校に入営しました。中央幼年学校、陸軍士官学校26期生を経て大正2(1913)年に砲兵士官として岡山の野砲兵第23連隊に配属されましたが、この時代の日本陸軍にはロシア革命後のシベリア出兵で満州に送った主力部隊を大陸侵攻に使い始めたので田中大尉も大正12(1923)年に陸軍参謀本部支那部に配属されてからは怪しげな経歴を重ねていていきます。中でも昭和5(1930)年に上海公使館付武官として赴任すると清朝の皇女で日本の大陸策働家の養女になった川島芳子さんと肉体関係を持ち、そのまま諜報機関に引き込んで「東洋のマタハリ」と呼ばれる女スパイに仕立て上げました。一方、昭和7(1932)年1月18日の午後4時頃に上海市内で団扇太鼓を叩きお題目を唱えながら勤行していた日蓮宗妙法寺の僧侶2名と信徒3名が中国人の反日活動家に襲撃されて1名が死亡、2名が重傷を負う事件を策謀し(昭和31=1956年になってから本人が証言した)、それが切っ掛けで日本人居留地が攻撃を受けて第1次上海事変が勃発しています。
事変終結後は大阪府信太山の野砲兵第4連隊の大隊長に復帰し、千葉県市川の野戦重砲兵第1連隊を経て昭和10(1935)年に再び関東軍参謀本部第2課の蒙古担当参謀として赴任すると昭和12(1937)年に1年間、朝鮮の野砲兵第25連隊長になった以外は謀略一筋の軍歴を重ねますが、昭和17(1942)年に初老期憂鬱症状で入院して予備役に編入されてからは敗戦に向かう時期を隠棲した山中湖畔で傍観していました。
ところが敗戦後の昭和21(1946)年に東京新聞に寄稿した内部告発記事「敗因を衝く」を占領軍司令部が見たことで東京裁判の検察側証人として出廷することになり、この味方を売る立場を選んだ理由を「有罪を逃れられない人間に責任を集中させて他の軍人の罪を軽くする」「占領軍の力で日本陸軍の膿を絞り出す」と後になって説明していますが、キーナン首席検事と協力して展開した法廷戦術からは「天皇の戦争責任の回避」が最大の目的だったように思われます。そのためには日本の戦争責任を死刑になったA級戦犯に集中させなければならず、超人的な記憶力を発揮して被告人に不利な証言を敗戦後の日本の戦争=軍隊映画のように上演して極悪非道な戦争犯罪者に仕立て上げたのです。
田中少将はキーナン首席検事から「東京裁判が閉廷した後にアメリカへ亡命させる」との確約を得ていたそうですが反故にされ、A級戦犯の死刑が執行されて8ヶ月半後の昭和24(1949)年9月10日に短刀で自決を図りましたが未遂に終わっています。
そんな田中少将は日本の元軍人からは「裏切り者」「戦犯逃れ」「私怨の報復」として徹底的に糾弾されましたが、それを黙殺することなくマスコミを使って反論したためさらに日本人的感情を逆撫ですることになりました。
- 2022/06/04(土) 15:26:34|
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