「どこに問い合わせれば良いんだ」ハーン首席検察官からの特別命令を受けて私は梢と帰国することに決めたがインターネットで下調べを始めると現役時代の知識が役に立たず困惑してしまった。梢は新型コロナ・ウィルス感染症の現状と入国・行動制限の担当なので日本政府や旅行社のサイトが詳しく解説しているが、自衛隊の内部情報は保全が徹底しているようで元自衛官でも理解が難しい抽象的な記述になっている。このような情報隠蔽が政治問題にならないのは日本の野党やマスコミの安全保障に対する関心が大したことないと言うことだ。
「対潜哨戒機の機体の検証や殺されたパイロットの検屍はどこが担当したんだ。問い合わせの窓口も判らんな」私としては竹島近海で韓国海軍のコルベットに撃墜された対潜哨戒機の飛行中の航跡や交信の記録、機内で搭乗員が撮影していた動画、悲惨な遺骸が映っている部分を削除したことを韓国側が隠蔽と断定した海底で機体を発見した時の無人潜水艇の録画映像、そして引き揚げた主翼に空対艦ミサイルが全弾残っていたことを証明する検証結果や防空識別圏を突破して若狭湾方面に侵入したため緊急発進した第8航空団のスクランブル機が撃墜されるまでの航跡と交信の記録、航空救難隊が収容したパラシュート降下中に銃撃されて死亡したパイロットの遺骸の検屍資料、さらに中国海警の警備船の砲撃によって国境離島警備隊員が全滅した後の沖縄県警と海上保安庁の合同現場検証で回収したガス弾の弾頭から検出された中国製毒ガスの分析結果などを確認するつもりだが、韓国や中国の強引な否定に日本政府が積極的に反論しなかったことを考えると「公表できない問題があるのではないか」と危惧もしている。それよりも私は今回の事態を遠隔地のオランダで現地のマスコミ報道と茶山元3佐が送ってくる新聞だけで情報収集しているため全体像や逆に細部は把握できていない。現役時代の人脈も同期は将官になった数名を除けば定年退官し、部下たちの多くも人事異動で所属不明になっている。人並み以上に筆マメな私だがやはり国際郵便の文通は手軽さに欠けるのだ。
「佳織に訊いてみれば好いじゃない。まだ現役だから力になってくれるわよ。今の職場の名前に研究って入ってなかったっけ」「教育訓練研究本部だったな。担当じゃあなくても関連はありそうだ」自宅用執務机のパソコンの前で私が手間取っているのでテーブルに置いた自分のパソコンで治安状況を調べ始めた梢が有り難い助言をしてくれた。佳織が緊急事態の特別人事で異例の長期勤務になっている現配置は陸上自衛隊目黒駐屯地の教育訓練研究本部だ。この名称から考えると技術関係は担当外でも衛生学校や化学学校は隷下に置いているはずなので、私よりも情報と人脈は潤沢で強固なはずだ。そこで私は固定電話の横に並べてある日本時間の置時計を確認した。8時間の時差ではお互いの睡眠時間が邪魔をして都合が合わず日中に職場にかけるしかない。妻への電話とは言え用件は業務なので職場からでも良いだろう。
「判ったわ。尖閣で回収した弾頭は化学学校で分析したはずだから資料を取り寄せておくわ。海上と航空も担当者は知り合いだから何とかなるでしょう。特に海上は貴方をイージス艦衝突事故の裁判で無罪判決を勝ち取った英雄にしてるから全面協力してくるはずよ。私、それを言われる度に妻として誇りに感じているの」翌朝、私が職場から電話をかけると佳織は意外に快活な声で応対した。考えてみればこちらから佳織に電話をかけることは滅多にないので夫婦としての関係が続いていることを再確認したのかも知れない。それにしてもイージス艦・あまごと漁船・軽得丸の衝突事故の裁判の無罪判決は海上自衛隊の組織力の勝利であり、私は一緒に戦う栄誉を分け与えられたに過ぎないと思っているのでいささか恐縮してしまう。
「そこまで綿密に調査するなら竹島の守備隊襲撃事件も確認すべきよ。あの時、海中から引き揚げた警備兵の遺骸が本当は日本の漁民だったって言う映像も見た方が良いわ」「何だそれは。こっちでは報道してないぞ」唐突に佳織が重大な情報を提供してくれた。
「あれは海空の自衛隊機が撃墜された後、竹島の警備隊が襲撃されて隊員が全滅する事件が発生したの。韓国側は『陸上自衛隊内の反韓国過激派が漁船を雇って襲撃した』って発表したんだけど、韓国海上警察の高速警備艇が現場付近で回収したって言う警備兵の遺骸が極めて不自然だったから大事件の割には全く取り上げなくなって、数日後に遭難者の死体を収容したって火葬した遺骨に死に顔の写真をつけて送ってきて終わってしまったわ」この説明で茶山元3佐の新聞で読んだことを思い出した。確かに意味不明・理解不能な事件だった。
「本当に助かるよ。大変な時期に世話を掛けるがよろしく頼む」「ううん、貴方の役に立てるなら幸せ・・・」パーンッ、パーンッ、佳織が返事をし終わる前に電話の向こうで銃声が響いた。音から推察して拳銃だ。日本では在日中国人や韓国人による発砲事件が常態化しているとは聞いているが、陸海空自衛隊が同居する目黒駐屯地にも射ち込まれるほど治安状態は悪化しているらしい。佳織の心配と梢を連れていくことへの不安が同時に胸をよぎった。
- 2022/06/06(月) 15:40:45|
- 夜の連続小説9
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