1950年の6月6日に日本共産党の処置に関する占領軍総司令官・マックアーサー元帥からの書簡を受け取った吉田茂内閣が日本共産党中央委員24名、機関紙「アカハタ」の幹部17名の公職追放を閣議決定し、いわゆるレッドパージが発令されました。
日本共産党は1917年のロシア革命後に呼応して日本国内のマルクス主義者=ソ連の工作員たちが大正11(1922)年に発足させた反国家組織であり、戦前は大正14(1925)年に制定された治安維持法に基づいて特別高等警察よって摘発されて主要幹部は海外に逃亡し、主に学生と労働組合員の活動家の大半は政治犯として服役していました。
日本が降伏する形で戦争が終わると自由主義の本家・アメリカが主体のはずの占領軍司令部にはフランクリン・ルーズベルト政権で世界恐慌後の経済再建のため自由主義の原則に反して国家予算による大規模公共事業のニューディール政策を推進し、日本と国民党の武力紛争に介入して経済封鎖などの執拗な挑発によって対米戦争に引き摺り込んだソ連の政治工作員が日本の民主化を指導する民政局員として送り込まれていたため治安維持法と特別高等警察の廃止と政治犯の釈放を命令し、共産党を合法政党にしたのです。
敗戦後の日本では上海の文民収容所が中国共産党によって支配されて知識階級が徹底的な毛沢東主義の思想教育を受けて帰国したため共産主義革命を待望する世論が拡大して学生や若手労働者たちは共産党支持に回り、学生運動や労働争議は過激化していきました。
また中国では1947年に第2次国共内戦が勃発すると国民党軍は連合国の支援が受けられずに敗走し、1949年10月1日に共産党による中華人民共和国が成立しました。
一方、1948年に韓国と北朝鮮が分離独立していた朝鮮半島では1950年6月25日の開戦を前に北朝鮮の工作員が韓国内で暗躍して北主体の統一による民族国家を要求するようになっていたため占領軍司令部内でも東アジアで激化する共産主義の脅威を認識し、占領政策の主導権を民政局から情報・思想工作を担当する第2部に移管させて反共産主義に転換させました(第2部では治安維持法と特別高等警察の復活も要求していた)。
これを受けて占領軍司令部では学校教育の現場で学生・生徒・児童が洗脳されていることを問題視して教育顧問のウォルター・クロスビー・イールズ博士に全国の国立大学を巡回させて共産主義の危険性を講話させましたが、旧帝国大学では戦前からマルクス主義が蔓延していたため学生と教職員の反発を招いただけで、1950年5月3日に日本共産党の非合法化を予告的に示唆してこの日の書簡=公式文書につながりました。
吉田政権では共産党本部に続いて教育現場や各企業に共産党員と工作員の解雇を要求して、マスコミでは朝日新聞72名、毎日新聞49名、読売新聞34名、日本経済新聞10名、東京=中日新聞8名、日本放送協会=NHK104名、時事通信16名、共同通信33名(社員数には格差がある)に及びましたが、あくまでも社内調査と自己判断であって大学や当時の公社(国鉄を含む)、銀行・金融業界などは調査すら拒否しました。
この公職追放は昭和27(1952)年4月28日の独立によって占領軍司令部が消滅したことで解除されました。
- 2022/06/06(月) 15:43:56|
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