「貴方、今夜から私の官舎よ」梢が乗った国内線を送迎デッキで見送ると場内アナウンスで呼び出され、指定された案内カウンターに行くと佳織が待っていた。制服姿なのを見ると仕事帰りらしいが、公務ではないので部長用の官用車でここまで来たとは思えない。昔は単身赴任の将官や駐屯地司令を駅に送迎するのも通勤扱いしていたが、民政党政権が税金の無駄遣いを徹底的に粗探しして以来、公務以外の官用車の運行は官舎と職場の往復に限定されているそうだ。何にしても搭乗者ゲートに入る前に梢を抱き締めて口づけしたところを見られなくてよかった。今日の梢は桃色の作務衣を着ているので他の搭乗者には年甲斐もなく熱愛の坊主夫婦に見えたかも知れない。佳織が制服を着てきたと言うことは人前のキスは期待していないはずなので、腕を組んで歩くのも遠慮することにした。
「そうか、だったらグランドヒルへ荷物を取りに行かないといけないな」「キャンセルの電話は入れておいたわ」中国の細菌兵器による行動制限が緩和されて想像以上に賑わっている羽田空港のロビーを歩きながらの打ち合わせになった。それにしても立っている警察官たちが緊張した顔で佳織に敬礼してくるのは治安出動によって自衛隊の将官も関係上司として認識するようになったからだろう。こんなところでも日本式治安維持の強固さを実感できた。
「頭(かしら)ーァ、右ッ」それはモノレールの駅でさらに強烈になった。駅の自動販売機で乗車券を買って改札口に向かうと2人組で立っている陸上自衛隊の指揮官の陸曹が周囲の乗客たちが怯えて固まる程の大声で号令をかけ、隣りの陸士長が機械仕掛けのように顔を向けた。礼式上は捧げ銃の方が適切だが、携帯しているのが短機関銃なので吊れ銃の敬礼になり、陸士長が混乱するのを避けたようだ。
「第2ターミナル駅改札口ポスト立哨中、異常なし」「はい、御苦労さま」「続いて服務します」「よろしく」陸曹は「直れ」の号令に続き、少しだけ音量を下げて報告してきた。佳織も正面に立ち止まって答礼すると型通りに対話した。この場所でここまで自衛隊流を実施できるのも自衛隊の治安出動が国民に受容されていることの証明のようだ。自衛隊は阪神淡路大震災の災害派遣で国民の支持が固まり、東北地区太平洋沖地震での長期間にわたる献身的な復興作業で信頼に発展させた。今回の治安出動で武力組織としての存在意義も認識されるかも知れない。
「モリヤさま、お客さまがお待ちです」夕食を終えて2人でグランドヒル市ヶ谷に戻ると男性のフロントに案内された。フロントがラウンジの方向に手を差し出したので振り返ると意外な人物が2人で立っていた。1人は私と同じく作務衣に浄土宗の威儀細を掛けた朝山元3佐、もう1人は緑色の旧制服を着た田島3佐だった。朝山元3佐は海上自衛隊を定年退官した後、私が紹介した武蔵野官舎=横田基地の近くの浄土宗の寺で得度を受け、誰かは明かさない亡者たちの供養に励んでいるはずだ。もう1人の田島3佐は守山時代の同僚だが、在スリランカ大使館の在外公館警備官だった時、私がアフガニスタンで現地調査している間、梢を預けたことがあった。その後、2人で旅行にも行っているが帰国後の連絡はなかった。
「これは蓮床(れんしょう)和尚、すっかり同業者になり切りましたね」「おかげさまで安らかな日々を送らせていただいています」坊主が2人で手を合わせて深く頭を下げていると陸将補と3等陸佐は呆れたように顔を見合わせた。佳織は田島3佐とは守山時代に、朝山元3佐はフィリピンで面識がある。朝山元3佐は出家した時、一ノ谷の合戦で若い平敦盛を討った坂東武者の熊谷次郎直実が法然坊源空上人の下で出家して与えられた僧名・法力房蓮生(ほうりきぼうれんしょう)を熱望したのだが、「流石に畏れ多い」と住職が1字換えて登録したそうだ。それにしても「極楽浄土の宝池に浮かぶ蓮を寝床にする」と言う僧名は中々洒落ている。
「ところでモリヤ和尚のお導きでフランス人の若者が出家の相談に来ましたよ」「私の・・・誰だろう」「外人部隊としてコートジボワールに派遣されていて帰国するために空港で待っている時に会ったそうです。モリヤ和尚が口ずさんでくれた外人部隊の歌を聞いて世の無常を覚ったとのことです」「確かに記憶にある」「それでモリヤ和尚が同行していた女性士官にフランスで会った時に詳しく個人情報を訊き出して色々調べた結果、何故か東京の寺に辿り着いたようです」「それで名前は」「傍樹森蔵と名乗っていましたが外人部隊で取得したフランス国籍の名前のようです」ソバージュとモリソーと言えば中学校の国語の教科書に載っていたモーパッサンの「ふたりの友」の登場人物だ。それにしてもオージェ大尉が教えたらしい修行として納所勤めしていたに過ぎない都下の寺に辿り着くような個人情報は謎だ。
「今回は2人のつながりは訊かないでおこう」「私も定年後は出家したくなるかも知れません」「その時は蓮床和尚に頼みなさい」田島3佐の現状については想像できたがあえて訊かなかった。私も対テロ戦闘の実態は世界各地の現場で見てきたのだ。
- 2022/06/09(木) 15:02:18|
- 夜の連続小説9
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