次は大宮駐屯地の化学学校だった。尖閣諸島に電波灯台を建設していた漁民たちを拘束するためにヘリコプターで上陸した沖縄県警の国境離島警備隊が発射したガス弾で中国人たちが死亡した事件の後、現場検証で再上陸した沖縄県警と海上保安庁の合同調査班が回収した不審な弾頭は警察庁の科学警察研究所に送られたが、生物化学兵器となるとオウム真理教のサリン事件を通じて協力関係を確立している自衛隊化学学校の方が専門なので共同鑑定になったそうだ。
「実は私も現役時代、化学学校への入校を希望していたんだよ。だけど子育てが忙しくて断念したんだ」私が挨拶代わりに案内の2等陸佐に思い出話を披露すると長期間の入校で私を子育てに励ませることにした佳織は顔を曇らせた。化学学校での一般幹部の教育課程は1尉以下が対象だったので守山では2人交代のAOCがあり、久居では佳織がCGSに入校していて私は子供2人を抱えたクレイマー生活だった。しかし、今の国際刑事裁判所の検察官の職務でも化学兵器禁止条約違反の戦争犯罪を審理する上で大いに役立つだけに勿体ないことをした。
「モリヤ2佐が入校していれば教官にも良い刺激になったんでしょうけど、サリン事件よりも前に生物化学戦に興味を持っていたのは珍しいですね」この勘違いからすると案内の2等陸佐は私の年齢を実際よりも上に見ているようだ。オウム真理教による松本サリン事件は1991年6月27日、地下鉄サリン事件は1992年3月20日なので私の守山時代だ。
「私は昔から731部隊に興味を持っていて、大学2年だった昭和56年に出版された森村誠一の『悪魔の飽食』の虚偽と捏造を社会に発信したいと念願していたんだ」この妙に詳しい年次説明は勘違いを訂正するためだが受け手は別の部分に反応した。
「あの小説は赤旗に連載されましたから始めから虚偽と捏造は織り込み済みの確信犯でしょう。我々もGHQがアメリカに持ち帰って秘匿した日本陸軍の資料とは別に731部隊の所属将兵などから情報収集して独自に研究を進めてきましたが、基本的には占領地での防疫と伝染病予防を主任務とする衛生部隊だったようです」この見解は私も個人的に同感だった。
「ところで化学学校は尖閣で使用されたガスを中国軍の化学兵器と判定したそうだが、その根拠になるサンプルを持っていたのかね」話が横に逸れたままになりそうなのでイキナリ本題に引き込んだ。私としては「尖閣諸島での化学兵器使用」が最も法廷闘争に持ち込まれる可能性が高いと考えているので今回の調査には十分な時間をかけたいのだ。
「中曽根内閣以降はアメリカ軍との連携強化が進んで、我々もアメリカが海外で入手した検体の分析などに共同で取り組むようになっています。最近では2002年のモスクワ劇場占拠事件で10月26日にロシア連邦保安庁のアルファー部隊が突入する際に使用したKOLOKOL1と称する合成オピオイドから生成するフェンタニルニ系の化学兵器や2013年と2017年にシリア内戦でアサド政権軍が使用したサリン、2014年にイスラミック・ステーツがイラクで使用した塩素ガスなどのサンプルも入手しています」「KOLOKOL1は治安部隊用だから致死性はなくて吸引して2時間から6時間意識を失うだけのはずが922人中129人が中毒死したからやはり化学兵器なんだろう。本来は化学兵器禁止機関が1997年発効の化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに破棄に関する条約の違反の疑いで調査するべきなんだが、ロシアは常任理事国だから強制はできないんだよ」先ほど化学学校が第731部隊を研究していると言う内部情報を漏らしてくれたので、私も交換として国際社会の裏事情を数滴垂らした。
「中国軍の毒ガスのサンプルも入手しているんだね」「中国はチベットの佛教徒弾圧で毒ガスを使用して鎮圧の効果を確認した上、破壊の痕跡が残らないことに味を占めて欧米のマスコミを遮断している新疆ウィグル暴動では人体実験のように使用を繰り返しています。我々はそれを可能な限り入手して分析しています。その点、欧米のマスコミが注目している香港では催涙ガスだけだったようですが」「チベットでは僧侶が僧院の書庫に閉じ込められてガスで窒息死させられているが、あれは毒ガスだったのかも知れないな」今度垂らした情報は国際刑事裁判所ではなく現役時代、タイの僧侶の依頼で2008年の北京オリンピックの聖火リレーの長野市の善光寺からのスタートを阻止する活動に取り組んでいた時に送られてきた映像で知った。その映像自体は人民解放軍の兵士が書庫から僧侶たちの遺骸を運び出している光景を人垣の陰で撮影している携帯電話の不鮮明な動画だったが、低く解説の音声が録音されていた。
「問題は化学学校が中国軍の毒ガスのサンプルを入手している事実を我々が公表できるかですな」私の危惧に案内の2等陸佐も重く深くうなずいた。しかし、見せてもらった分析結果は尖閣諸島で中国人を殺害したガスが中国製であることを確信するに足る高度な内容だった。つまり戦端を開くために中国政府=共産党が自国民を人身御供にしたことになる。
- 2022/06/11(土) 14:59:42|
- 夜の連続小説9
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