「横田基地かァ、志織を小学校に送り迎えしていた頃以来だな」海上自衛隊厚木基地、陸上自衛隊大宮駐屯地の次は横田基地だ。都内の佳織の官舎から官用車で都心への通勤ラッシュに逆行しながら横田基地に向かった。横田基地では在日アメリカ軍令部を兼ねている第5空軍司令部ではなく航空総隊司令部で、海上自衛隊の対潜哨戒機が韓国海軍のコルベットに撃墜された時、航空自衛隊のスクランブル機が韓国空軍機に撃墜され、パラシュート降下中のパイロットが射殺された時、そして中国が日本に対する懲罰を宣言して出撃させた艦隊を対潜哨戒機が東シナ海で攻撃した時の交信音声と航跡記録を確認することが目的だ。
「あの頃、お前はアメリカ軍のCGSに留学する予定を知っていたのか」私は官用車の後席で広大な空き地のように見える基地を車窓から眺めながら思い出した疑問を隣席の佳織に投げかけた。私はオランダで梢を「お前」と呼んでいるので無意識に口にしてしまったが、佳織は結婚後も「君」としか呼んだことがない。案の定、運転手の陸曹のWACが驚いたようにルーム・ミラーで佳織の顔を見た。将官を「お前」呼ばわりする場面は初体験だったようだ。
「CGSの日本人の同期の中では私の英語力が抜群だったのは確かよ。あの頃はバブル入隊者ばかりだったから防大出身者も大したことなかったの。だから2年目に入った頃には当然の流れみたいになっていたわ」佳織は陸上自衛隊の指揮幕僚課程に入校中に久居の私にアメリカの小学校の教科書を送ってきて志織に英語で教育させた。そして入学して間もなく横田基地のアメリカの小学校に転校させ、そのままアメリカ軍の指揮幕僚大学院の留学に同行させたのは「用意周到に過ぎる」とある種の疑いを抱いてきた。私たち夫婦に棲む世界の境界線が引かれたのは佳織のCGS入校が切っ掛けだったと言うのが今噛み締めている実感なのだ。
「それをワシに言わなかったのは反対されるとでも思ったのか」「CGSが終わって陸幕長に申告した時、人教部長から将来は英語圏の防衛駐在官にする予定だとは聞いていたわ。ハワイの連絡官はアメリカ軍の対イスラム戦争が始まる時期に前任者が急逝したから移動の発令前だった私が抜擢されたのよ。志織をアメリカン・スクールに入れたのはあくまでも将来国際社会で活躍してもらいたかったからよ」佳織がハワイに赴任することになった経緯は一緒に陸上幕僚監部で勤務していた私も承知しているからこれ以上深入りする必要はない。丁度、横田基地の正門に着いて佳織が航空自衛隊の警衛隊の「捧げ銃」の敬礼を受けた。
「なるほど海上自衛隊側には攻撃する意思は全くありませんね」航空総隊司令部の小会議室で佳織を通じて事前に要望しておいた防空指揮群が保存している航跡記録のスクリーン映像と交信音声を確認したが搭乗員たちの声に緊張感はなく、むしろ世間話のような雰囲気を感じた。
「ここでPー1は接舷しているコルベットと北朝鮮の不審船を撮影しようと高度を下げます」ここで案内の2等空佐が大写しにしているスクリーン映像のPー1の航跡に表示されている高度の数字をレーザー・ビームで示した。数字は300とあるから300フィート=91・4メートルだ。航空総隊司令部は中部防空指令所からPー1の航跡記録と傍受していた厚木基地の海上自衛隊指揮所との交信音声の提供を受けたのだが詳細に分析していることが判る。
「コルベットのガン(火砲)が作動しました。銃口がこちらを・・・」「回避しろ」十数秒後、音声は驚愕と悲痛な叫びになって航跡が消えた。その消えた航跡の機体には厚木基地で実物に触れて、犠牲者たちの死に顔にも会ってきた。
「コリアンが発砲した。ジージョが撃墜された」次は築城基地の第8航空団のスクランブル機が撃墜された時の防空識別圏=ADIZへの異常接近から緊急発進、接触までの航跡記録と通警告を含む交信音声になったが、こちらは対潜哨戒機の撃墜事件の後だけに最初から緊張感が満ちている。それにしてもFー2の撃墜は位置や経緯から見て韓国側の違法性が極めて高い。
「コリアンがパラシュートに発砲、ジージョが落下します」続いて僚機が撃墜されても退避することなく監視を続けていたスクランブル機のパイロットが無事に脱出してパラシュートで降下していた同僚がバルカン砲で射たれ、海面に落下したのを目の当たりにした。小松救難隊が収容したパイロット=ジージョの遺骸の写真は明日、そのまま空輸されて検屍に当たった三宿駐屯地の自衛隊中央病院で見ることになっている。
「リクエスト、ドッグ・ファイト(空中戦を要求する)」「許可がなくても正当防衛としてキル(殺す)する」生き残ったパイロット=ドライの撃墜許可の要求と一方的な宣言に同調することなく西部防空指令所は冷静に対応していることが判った。戦争法には空戦法がないため陸戦法や海戦法のように戦時に戦闘力を失った戦闘員を空中で殺害することを禁じる規定はない。しかし、対領空侵犯措置は平時の警察行動なのでこれは明らかに刑法第199条「殺人」に該当するはずだ。法令を厳守している側の日本政府の弱腰ぶりが理解できなくなった。
- 2022/06/12(日) 14:54:50|
- 夜の連続小説9
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