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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月12日・原子力船「むつ」が進水した。

昭和44(1969)年の6月12日に石川島播磨重工業第2東京工場=造船所で日本では唯一の原子力船「むつ」が進水しました。進水式には当時の皇太子夫婦が出席し、女性が命名=船名を発表して斧で支綱を切る欧米の風習に倣って皇太子妃が切りました。
当時(小学2年生)から海軍少年だった野僧は「むつ」と言う船名に昭和18(1943)年6月8日に停泊中に大爆発を起こして沈没した戦艦「陸奥」を思い出しましたが、当初の母港・大湊の所在地・むつ市に由来するそうです。
「むつ」は原子力推進の航空母艦や潜水艦の就役で実用性が高まってソ連が砕氷船「レーニン」、アメリカが貨客船「サバンナ」、西ドイツが鉱石運搬船「オットー・ハーン」を建造したのを受けて核の平和利用として原子力発電を推進する佐藤栄作政権が海洋観測船、実際は原子力実験船として計画しました。
佐藤政権としては核アレルギーが重篤な国民を刺激することなく技術開発を進めることを至上命題にしていたため船体の安全性には万全を期し、大型タンカーが側面から全速力で衝突しても船首が原子炉に届かないほどの強度を持ち、深海に沈没しても水圧で原子炉格納容器が圧壊しないように沈没時から海水を流入させて外部と同一の水圧を保つ設計でした。さらに一般的な民間仕様の原子炉では緊急炉心停止時には制御棒を駆動装置から分離して炉心内に落とす方式でしたが、転覆しても脱落しないように制御棒をバネの力で炉心に固定する特殊な方式を採用していました。
しかし、現地取材に来た東京のマスコミから「原子炉が爆発すれば核兵器と同じ結果を生じる」「放射能汚染の風評被害で魚が売れなくなる」などと吹き込まれた地元の漁民たちが反対に回り、昭和45(1970)年7月に船体工事が完了してディーゼル機関で大湊に回航した時から漁船による海上封鎖に遭い、原子炉の艤装工事が完了して昭和47(1972)年8月に日本原子力船開発事業団に引き渡された後も港内に閉じ込められました。
ところが昭和49(1974)年8月26日に台風14号が接近して海が荒れたのを利用して強行出港すると太平洋上で出力上昇試験を開始し、8月28日に臨界に達しましたが9月1日に放射線の流出が検知されました。実は設計段階から遮蔽リングの構造上、ある程度の放射線の放出は予測されていたのですが、マスコミは原子炉内の核燃料が流出した「放射能漏れ」とする意図的な誤報を大々的に流して国民の核アレルギーを発症させ、漁民の反対運動を全国に拡大させ、「むつ」は洋上に停泊する漂流船になりました。
昭和53(1978)年になって経営難に陥っていた佐世保重工業での改修工事が決定して昭和55(1980)年8月から約2年間かけて遮蔽リングの交換などの改修工事を受けたのです。この間に政府と青森県、むつ市の話し合いで下北半島でも津軽海峡側の関根浜港を新設して母港とすることが決定し、1992年2月まで地球を2周する以上の航海による実験を繰り返しましたが、1993年に核燃料、1994年に原子炉を撤去してディーゼル・エンジンに換装すると「みらい」に改名され、現在も海洋地球研究船として活躍しています。船体としては当時最高の技術の結晶ですから当分現役でいけるでしょう。
  1. 2022/06/12(日) 14:55:55|
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