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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月22日・發心寺僧堂堂長・樵庵雪渓老師が遷化した。

2020年の明日6月22日に野僧も安居した福井県小浜市の發心寺僧堂の堂長・師家で、「見性(悟り)の人」として多くの著書を刊行しただけでなくドイツ、アメリカ、インドなど海外でも講演と坐禅を指導して多くの外国人の修行僧・参禅者を集めていた樵庵雪渓老師が遷化しました。実は2021年9月の某日、小庵の佛前コクピットに雪渓老師が座っておられたので「いよいよ遷化されましたか」と訊ねると相変わらずの笑顔を浮かべて消えてしまいました。おそらく世界各地の多くの弟子たちのところを回ってきて野僧の順番になるまで1年3カ月を要したのでしょう。
雪渓老師は昭和元(1926)年に野僧と同郷の愛知県岡崎市でも本宿(野僧の矢作とは逆方向)で生まれました。生家は四国の徳島藩主になった蜂須賀小六さんと同族で俗名の原田姓は發心寺の住職の養子になって改姓しました。
雪渓老師は新到(新入門)の野僧に「アンタなら戦争の話を理解してもらえる」と誰にも明かしたことがない戦争体験を語ってくれました。明治大学在学中に戦争が始まると海軍の主計軍属としてトラック島に派遣されましたが、ある日、アメリカ軍の艦載機の空襲で機銃掃射されて同僚たちと塹壕の中で伏せていると雪渓老師以外の同僚たちは全滅していて、その時に「唯一人生き残らされた自分が果たすべき役割」について真剣に考え、生死の本質を見極めると言う至上命題を与えられたそうです。
敗戦後に帰還して大学を卒業するとその命題を探究するべく佛門に入り、広島県竹原市の坐禅道場・少林窟で勝手に頭を剃って私度僧になりましたが、住職に發心寺を紹介されて正式に得度を受けて安居したのです。すると少林窟の創始者の允可を受けた弟子が浜松市の寺で坐禅を指導しているのとの噂を聞き、意外に衝動的な性格(良く言えば菩提心が爆発的に燃焼している)の雪渓老師は發心寺を脱走して浜松市に向かい入門しました。ここでの托鉢中に別の修行僧の何気ない一言で悟りへの1歩を踏み出して「牛、山に入りて水足り草足る。牛、山を出て東觸西觸」と見性を証せられました。
そんな雪渓老師は摂心(修行強化週間)の独参で野僧が「山の中や海岸で坐禅を組んでいると佛様の御姿を現して下さいます」と言ったところ「そんなのは幻だ、有り得ない」と即座に否定され、野僧が「坐禅を組んで『そんなものはない』と言う常識みたいなものを削り取ると精神が剥き出しになって、霊的なものを感知できるようになるのでは」と再挙したところ「それを信じるのなら發心寺の坐禅とは違う。ご祈祷をやる寺へでも行った方が良い」と言われたのです。単純かつ馬鹿正直な野僧はこれを適性判断・進路指導だと思い大いに悩むことになりました。
また野僧は長年茶道をやっていて發心寺の雲衲の中では唯一正式なお点前ができたため作務の空き時間などにお茶が好きな堂長老師に呼ばれて「茶飲み友達」をすることもありました。そんなある日、雪渓老師は「アンタは人生を楽しむことを知らんようだ。アンタを見ていると殊更に死に急ぐ若い士官たちを思い出す。ここでは楽しく過ごす術(すべ)を修行しなさい。こんなことを雲衲さんに言うのは初めてだ」と指導をされたのです。
外・樵庵雪渓老師樵庵雪渓老師頂相
  1. 2022/06/21(火) 14:14:25|
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