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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月24日・航空自衛隊機T-33A乗り逃げ事件

昭和37(1962)年の明日6月24日の午後3時頃に航空自衛隊松島基地の第4航空団第7飛行隊の26歳で2等空曹の航空機整備員がジェット練習機・T-33A若鷹を操縦して約2400メートル滑走して浮上したものの約10メートルで墜落して機体は中破し、整備員は持っていたナイフで割腹自決を図りましたが致命傷にはならず逮捕された事件が発生しました。ただし、防衛庁が公式発表したのは整備員が自衛隊法第121条「器物破損」、出入国管理法の「窃盗・国外逃亡」、航空法「無許可操縦」の罪状で起訴された裁判の第1回公判当日の昭和37(1962)年9月10日になってからでした。
動機として整備員は昭和21(1946)年に宮城県へ引き揚げて来るまで南満州鉄道の職員だった父親の家族として暮らした「生まれ故郷のハルビンに帰りたかった」と証言していますが、このような軽率で単純な事件が2ヵ月半後まで公表されなかった理由としては「共産党中国への政治亡命を図ったのではないか」と言う疑惑から整備員の経歴や交友関係などの思想的背景の調査に時間を要したとする説(読売新聞)や仮に政治亡命が事実となれば政治問題化するのは必定なので国会の会期終了を待ったとする説(毎日新聞)、そして最も現実味を帯びている源田実元航空幕僚長が参議院選挙に出馬していたため航空自衛隊上層部に圧力をかけて発表を遅らせたとする説(朝日新聞)がありました。
確かに整備員は決行するに当たって松島基地では練習機として使用していても機体としては戦闘機のFー86F旭光の脚上げスイッチのリード・ワイヤー(電線)を切断して追跡を不可能にするなど素朴な望郷の念や「世間をアッと言わせたかった」と言う売名行為ではない周到で綿密な計画性を発揮していますから疑惑は払拭できませんが、マスコミは公判の経過や判決、その後の人生などを一切報道していません。
事件後、整備員は懲戒免職、上官の整備小隊長と飛行隊長は減給の処分を受け、第4航空団司令は進退伺を提出して7月1日付で空将補に昇任、7月31日付で航空幕僚監部付に発令されて9月11日付で退役したなど少なからぬ波紋を残しましたが、参議院議員に当選した元航空幕僚長の画策で航空自衛隊のブルーインパルスが昭和39(1964)年10月10日の東京オリンピックの開会式で国立競技場の上空に五輪を描くことが決定したため国民の関心はそちらに向いてたちまち風化しました。
おまけに昭和48(1973)年6月23日には陸上自衛隊北宇都宮駐屯地の航空学校宇都宮分校の自衛隊生徒出身の20歳で3等陸曹の航空機整備員がレシプロエンジン・プロペラの練習機・LM―1を操縦して離陸に成功しながらも消息を絶つ事件が発生していて「自衛隊機乗り逃げ事件」と言えばこちらを指すようになっています。
陸上自衛隊の事件でも整備員は最大航続距離1556キロのLM-1で「北方領土や北朝鮮への亡命を図った」との疑惑が流れましたが、航空自衛隊の方は日本からハルビンまで直線距離1450キロ、Tー33A若鷹の航続距離は2000キロですから到達は可能でした。しかし、T-33A若鷹はLMー1ほど操縦が容易ではなく飛行前点検でエンジンを始動させてスイッチ類を操作する整備員でも手に負えなかったようです。
  1. 2022/06/23(木) 14:38:32|
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