1993年の明日6月28日に春日基地の西部航空警戒管制団防空管制群の隊員の間ではステルス1佐の仇名(保全上、実名は非公開とします)で呼ばれていた第5高射群司令が沖縄で始めた趣味のハングライダーの練習中の突発事故で墜落死しました。
ステルス1佐は野僧が見習い兵器管制士官として西部防空管制群に勤務している時の群司令で背が低くてもスポーツマンで、そのため日に焼けて顔が黒く、何よりも現場と隊員が大好きな人でした。
防空管制群は地下25メートルの体育館並みに広くて暗い管制室にレーダーがいくつも並んだところですがそこへいつの間にか、どこからともなく群司令が現れるので若手幹部の間では当時ベールを脱いだばかりだった米軍の見えない黒い戦闘機=ステルス戦闘機になぞらえてステルス1佐と呼ぶようになり、それが若い隊員にまで広まったのです。
ある夜勤終了直前の朝、野僧が(レーダーの)監視係幹部についているといつの間にか前のレーダー員の席に白髪の隊員が座っていました。そこで野僧が「そこにいるのは誰だ」と声をかけると振り返ったのは群司令=ステルス1佐で「悪戯成功」と言う感じでニヤーッと笑いながら「お前は、レーダーの前にチャンと隊員を監視しろ」と叱られました。
家族を佐賀市内に置いての単身赴任だったステルス1佐は官舎で自炊の朝食を摂ってそのまま出勤しても群本部には誰もおらず、24時間体制の防空管制隊の控え室でコーヒーを飲んでから現場に来ては夜勤明けの若い隊員が眠そうにしていると「代わってやる」と言って一緒に監視業務につくことがよくあって監視係幹部は気が抜けませんでした。
そんなステルス1佐は第5高射群司令として沖縄に赴任すると防衛大学校時代からパイロットを熱望しながら「身長が低くてコンソールから外が見えない(本人の弁ではない)」と航空身体検査(甲=管制官は乙)で落とされた大空への夢を叶えるべくハングライダーを始め、元来がスポーツ万能なのでみるみる上達したそうです。
ところがこの日の練習中、突風にあおられた人を止めようと腰にしがみついて一緒に飛び上がってしまいました。上空で操縦者が「急いで高度を下げるから頑張れ」と声をかけると「もう駄目だ」と答えて落ちて逝ったそうです。操縦者は大柄だったようなのでステルス1佐の短い腕では腰に手が回し切れなかったのかも知れません。
野僧は事故現場が沖縄本島中部の高台付近と聞いて樹木のクッションで助からなかったのが不思議だったのですが高度60メートルが基地の煙突の高さと聞いて納得しました。
この悲報を聞いた西部防空管制群の若い隊員たちは「やっぱりGCIO=要撃管制幹部は地下にもぐってないと駄目なんだ、飛んではイケナイんだよ」と言って泣いていました。
野僧は見習い兵器管制士官時代、ソ連軍機に通・警告すると流暢なロシア語とアラスカ訛りの英語に喜んだパイロットが回答して談笑になったことがありました。そのことを聞いたステルス1佐は野僧に興味を持ったようです。これ以上は語れません。そしてステルス1佐は非公務の私的な事故死でありながら殉職に準じて空将補に特別昇任しています。奥さんは「武人にあるまじき無様な死に方をしながら不相応な栄誉」と固辞したそうです。
- 2022/06/27(月) 14:47:00|
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